THE ROYALTY OF REVELRY

アメリカン・セレブの象徴——ペイリー夫妻

September 2022

メディア界の大物ウィリアム・S・ペイリーと社交界の花形バーバラ “ベイブ” クッシング・モーティマー・ペイリーは、複雑な関係の夫婦というだけではなかった。

彼らが度々催したニューヨークの夜会は、アメリカのスタイルとグラマラスをめくるめく高みへと導いたのだ。

 

 

 

by STUART HUSBAND

 

 

 

 

 

 

 1966年11月28日、感謝祭翌週の月曜日の夕方、ニューヨーク5番街820番地。選ばれた人々があるアパートメントに集まり、早めの晩餐会を開いた。女優ローレン・バコール、ポーランドの大貴族スタニスラス王子とリー・ラジヴィル王女、建築家フィリップ・ジョンソン、『ワシントン・ポスト』紙の発行者キャサリン・グラハム、そして作家トルーマン・カポーティなどが招待されていた。

 

 それは、「世紀のパーティー」として知られるようになる伝説的な夜会=この日、カポーティが主宰した仮面舞踏会「ブラック&ホワイト・ボール」に先立って行われた会であった。この家の空気は、まさにハイソサエティの香りを醸し出していた。

 

 アパートメントのオーナーは、TVネットワークCBSの創設者ウィリアム・S・ペイリーと、その妻バーバラ “ベイブ” クッシング・モーティマー・ペイリー。20世紀半ばのアメリカ社交界の中心ともいうべきふたりである。

 

 アパートメントには20以上の部屋があり、3つのチーム(著名なデコレーターで社交家のシスター・パリッシュ、ケネディ時代のホワイトハウスの改装を手がけたアルバート・ハドリー、そしてセレブリティに人気だったビリー・ボールドウィン)によって装飾されていた。彼らはアンティークの家具とモダニズムの名作を組み合わせ、古き良き時代に鮮やかな色柄を加えた見事なインテリアを作り上げていた。

 

 エレガントなダイニングルームの壁一面には、ピンクのコットン生地が張られていた。ギャラリーの床は18世紀のイタリア製寄木細工で出来ていた。そして玄関ホールには、ピカソのバラ色の時代の傑作《馬を引く少年》が飾られていた。入館したゲストが最初に目にするアートだった。

 

 その夜、舞踏会のウィリアム・ペイリーは、サヴィル・ロウのハンツマンで仕立てた完璧なタキシードと、カスタムメイドのイブニングシューズを身に着け、ジバンシィが彼のために特別に作ったムスクの香りのコロンをつけていた。60代半ばにして精力的に活動していた彼を、カポーティは「人間を丸呑みしたような男」と評した。そして妻のベイブも、舞踏会のためのシンプルかつ絶妙なファッションだった。白い貝殻のドレスと豪華な宝石をちりばめたネックライン、そして人気デザイナー、ホルストンが彼女のためにデザインした人工ルビー付きの白いファーのマスクを着けていた。カポーティはベイブについて、「P夫人の欠点はただひとつ」と書いている。

 

「彼女は完璧だった。完璧であること以外は」

 

 豊かに生きることが最高の復讐だとすれば、ペイリー夫妻の報復への渇望は、まさに信仰のようなものだったに違いない。

 

 

 

 

 ペイリー夫妻は、「テイストメーカー」として尊敬に足る実績を持っていた。ウィリアムはかつてこう語っている。

 

「私は、アメリカの大衆にとって何が重要であるかという感覚を持って生まれてきたのだと思う」

 

 歩道でホットドッグを、美術収集家ガートルード・スタインからピカソを、テレビ局のためにドラマシリーズをと、彼は「買うこと」すべてに情熱を注ぎ、1928年には、ラジオ局の寄せ集めだったCBSを、世界で最も強力なコミュニケーション・ネットワークに変身させた。ウィリアムの伝記を著した作家デイヴィッド・ハリスはこう語っている。

 

「彼はラジオとテレビという、ふたつの新しいメディアに対して優れたセンスを持っていた。それは彼の自信によって生み出されたものだ。彼は自分が好きだと思うものが、一番ウケるとわかっていた。当然のようにメディアを支配したのだ」

 

 ニューヨーク・タイムズ紙は、ウィリアムの追悼記事で、彼を「19世紀の強盗のような野心と、20世紀の先見の明を持った男」と表現している。

 

 

 

 

 ウィリアムは、「葉巻からテレビ」という、思いもよらない道を歩んできた。1901年、シカゴのウエストサイドのユダヤ人街で、ウクライナから移住してきた両親のもとに生まれた彼は、12歳の時に自分の名前にミドル・イニシャル“S”をつけた(「意味はなく、ただ見た目と響きが良かった」と彼は言っている)。父は葉巻工場を経営していたが、1920年代半ばに家族と会社をフィラデルフィアに移し、億万長者になっていた。10年後には、家業で年間5万ドルの収入を得ていた。

 

 1928年、ウィリアムは27歳の誕生日の2日前に、フィラデルフィアにある16局の弱小ラジオネットワーク、コロンビア放送システムの社長となった。ネットワークに投資し、コマーシャルを放映し、番組のスポンサーにもなった。その結果、家業の葉巻の売り上げは150パーセントも伸びた。

 

 ウィリアムは、放送局のビジネスモデルを変えた。優れた番組が広告を売り、ひいてはネットワークに利益をもたらす鍵であることを発見したのだ。スポンサーを放送の最も重要な要素として捉えたのである。番組を系列局にわずかなコストで提供し、番組と広告の両方を広く流通させた。全盛期の彼は、大衆の趣向を不思議と見抜く、見事なセンスを持っていたといわれる。CBSは1940年代までに、小さな放送局チェーンから世界有数の通信帝国へと成長していた。

 

 ウィリアムは数十年にわたり番組編成にも関与した。1950年代の西部劇から70年代の洗練された都会的なコメディまで。西部劇ドラマ『ガンスモーク(1955〜75年)』や野戦病院におけるドラマ『マッシュ(1972〜1983年)』などをヒットさせ、放送局の経営者というより、メディアの神託者ような存在になった。

 

 

 

 

 ウィリアムが前夫と離婚したばかりのベイブと結婚したのは、1947年のことだった。

 

 ベイブの友人は、彼女のことを「温かいが、スキンシップがない。彼女は決して子供たちを抱き上げたりせず、子供たちは愛情不足に悩んだ」と評している。彼女が得意だったのは子育てではなく、1950〜60年代のマンハッタン社交界の中心でパーティを開くことだった。ベイブは、当然のように『ヴォーグ』誌のファッション・エディターのポストに就いていた。

 

 カポーティは1955年に初めてペイリー夫妻に会った。映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックに連れられて、ジャマイカのラウンドヒルにあるペイリー邸で長い週末を過ごしたのだ(このとき、ベイブはチャイナブルーのパジャマスーツを着てデッキで寛いでいる姿を写真家スリム・アーロンズに撮影され、「リゾート・シック」の概念を切り開くことになる)。

 

 ウィリアムとベイブはジャマイカへのプライベートジェットに搭乗したとき、今度のゲストの「トルーマン」がカポーティであることに気づき驚いたという。彼らは前大統領ハリー・S・トルーマンが来ると思っていたのだ。いかに彼らが高名な人物と付き合っていたかがわかるエピソードである。

 

 カポーティはペイリー家の養子のような存在となり、ベイブはカポーティを通じて「スワン」と呼ばれる社交界の花形女性たちと付き合うようになった。マリア・アニェッリ、グロリア・ギネス、C.Z.ゲスト、リー・ラジヴィル、スリム・キースなど、絶世の美貌とエレガンス、そして莫大な財産を併せ持った女性たちである。カポーティの伝記作家、ジョージ・プリンプトンは、ベイブのことをこう評している。

 

「彼女はいつも完璧な格好をしていた。プールサイドに座っていても、豪華なディナーを主催していても、シーンに合わせた着こなしでパーフェクトだった」

 

 舞台となる場所はたくさんあった。セント・レジスのレジデンス(義兄のアスターが所有していた)、ニューヨーク州ロングアイランド・マンハセットにある80エーカーのキルナ・ファーム(美術品コレクションの大部分を収容)、ジャマイカの別荘、そして先述の、カポーティによる「ブラック&ホワイト・ボール」舞踏会の中継地となった5番街820番地のアパートメントなどである。

 

 几帳面な女主人のベイブは、シーツに2度、ランドリーとベッドの上でアイロンをかけさせたり、メニューをすべて保存することでゲストが同じ料理を提供されないよう気を配ったりした。「バスルームも花でいっぱいで、とても入れない」と、ある訪問者は驚いていた。

 

 

 

 

 こうした華やかさはペイリー家に潜むダークサイドを覆い隠すのに役立っていた。しかし、1975年にエスクァイア誌に掲載されたカポーティの短編『ラ・コート・バスク(La Côte Basque)』(後に単行本『叶えられた祈り』に収録)で、ウィリアムの不倫が明るみに出てしまった。それはセレブたちの暴露話だったのだ。ウィリアムがモデルとされるシドニー・ディロンは、ニューヨーク州知事の気難しい妻(ネルソン・ロックフェラーの第二夫人、メアリーがモデルと言われている)を寝取る。彼女はユダヤ人のディロンが決してお金で買えないもの、つまりワスプのエリートを象徴していたからだ。

 

「ボナールの絵を見にこないか」。彼女を部屋に招いた彼は、性行為の後、彼女の血がベッドシーツに「ブラジルほど」大きなシミを残しているのを発見する。妻にバレることを恐れた彼は、慌ててシーツをバスタブで洗い、オーブンに入れて乾かそうとする(これはベイブがいつもリネンを二度洗いしていたことを揶揄している)。

 

 この暴露により、ベイブはカポーティを「究極の裏切り」と断じ、二度と話をしなかった。ピカソの伝記作家でベイブの友人ジョン・リチャードソンは、2012年の『ヴァニティ・フェア』誌にこう語っている。

 

「ベイブは『ラ・コート・バスク』に驚愕していた。人々はウィリアムを女たらしだと言っていたが、カポーティが暴露するまでは、夫の浮気が話題になることはなかったのだ」

 

 一方、カポーティはかつての親友ベイブほど「絶望的に不幸な」人物には会ったことがないと語った。

 

「彼女は美貌、センス、誰もが羨むほどの財産を持っていた。しかし彼女はすべてを手に入れた後、それらが自分の望むものとは違うことに気づいた。彼女の人生は大きな悲劇のようなものだ。世界中の誰も私に同意しないだろうが」

 

 

 

 

 生涯喫煙者であったベイブは、その頃には肺癌で深刻な病状に陥っていた。ウィリアムからの決して少なくない資金で病気と戦ってきたにもかかわらず、である。

 

『ヴァニティ・フェア』誌のエイミー・ファイン・コリンズはこう語った。

 

「彼女は究極のトロフィーワイフだったが、不実な夫を持ち、60代前半で癌と戦っていた。彼女には、輝きと可愛らしさ、完璧さの一方で、ある種の暗い影があった」

 

 ベイブは1978年7月、63歳の誕生日の翌日に亡くなったが、いつものように、細部に至るまで完璧な計画が立てられていた。屋外での昼食会では、バスルームに行く人の妨げになるほどの花に囲まれて、友人たちはロワールの銘醸ドゥ・ラドゥセットのプイィ・フュメで乾杯したのだった。

 

 ウィリアムはというと、ベイブより10年以上長生きし、最後までCBSの頂点に君臨し続けた。

 

 1987年の春の夜、86歳の誕生日を数ヵ月後に控えた彼は、アンティークのバカラ用テーブルを事務机として置いたエレガントなオフィスを後にした。最も成功したドキュメンタリー番組『60ミニッツ』(1968年〜)を祝うパーティーに出席するためである。

 

 かつてエディンバラ公の執事だったジョン・ディーンの助けを借りてオーダーメイドの最高級ディナージャケットを着込むと、30年前にカポーティの舞踏会に出かけたのと同じように5番街のアパートメントから出発した。エレベーターに乗る前には、ピカソの絵を眺めたかもしれない(この絵は1990年の彼の死後、ニューヨーク近代美術館に寄贈された)。

 

 ウィリアムとベイブの功績は、アメリカン・エスタブリッシュメントのスタイルを確立したことである。それは最小限の手間と最大限の精巧さを併せ持ったスタイルだった。シンプルなようで誰にも真似できない。ふたりはパワーとグラマラス、大いなる魅力と影響力を象徴していたのだ。