HEART OF A WARRIOR
武士の心を持つ男、三船敏郎
August 2022
戦後、アメリカ占領軍の下で働いていた三船は、日本最大の映画会社である東京の東宝スタジオへと足を運んだ。軍で写真の仕事をしていたので、カメラマンになろうと考えていたのだ。しかし、彼の履歴書はなぜか“ニューフェイス”コンテストに参加していた俳優志望の若者たちの中にあった。黒澤は自伝の中で、コンテストの審査には忙しくて参加できなかったが、審査員のひとりである女優の高峰秀子に促されて三船を見に行ったと記している。
雑誌『映画ファン』のために撮り下ろされたポートレイト(1954年)。
「ひとりの青年がオーディション会場で激しい熱狂を巻き起こしていた。生け捕られた猛獣が、そこにいるような凄まじい姿だった」と彼は思い出している。「私は立ちすくんでしまった。しかし、この青年は本当に怒っていたわけではなく、スクリーンテストで表現すべき感情として“怒り”を表していたことがわかった。彼は演技をしていたのである。演技が終わると、彼は自分の椅子に戻り、疲れ切った様子で腰かけ、審査員を威嚇するように睨み始めた。私は、このような行動は、彼が内気さ隠すためのものだとよくわかった。しかし、審査員はそれを無礼だと思ったようだった」。
実際、審査員は三船を不合格にしてしまった。黒澤が三船を採用するように、スタジオを説得したのである。「私は役者に感動することはめったにない。しかし、三船の場合は、普通の俳優が3回の動作で表現することを、1回の動作で表現することができた。これには完全に参ってしまった」と黒澤は言った。
“参った”のは黒澤だけではない。三船は、サムライの装束を纏おうが、シャープなリネンのスーツを着てヤクザを演じようが、白衣を着て戦時中の医師となろうが、すべての役にアイロニックな自己認識の感覚と強烈な身体性をもたらした。アメリカの評論家ポーリン・ケールは、「膝と尻でこれ以上のことができる俳優はいない」と言った。評論家のアンソニー・レインとマイケル・スラゴウは、それぞれ彼を「人間のハリネズミ」、「陶器店の中の日本の牛」と表現した。映画監督マーティン・スコセッシは、「彼の複雑な演技の鍵は、ライオンの動きを研究したことにある。彼はまるで檻の中の動物のようだ」と評した。
ロサンゼルスのリトルトーキョーにて(1983年)。