AMERICA'S GODFATHER: ROBERT DE NIRO

アメリカのゴッドファーザー:ロバート・デ・ニーロ

September 2023

ロバート・デ・ニーロはアメリカの俳優として、最も成功したひとりであることは間違いない。映画『ゴッドファーザーPART II』(1974年)のスターは、アメリカそのもののゴッドファーザーとなったのだ。

 

 

by ed cripps

 

 

ニューヨークでフランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー PART II』のシーンを演じるロバート・デ・ニーロ。

 

 

 

 2016年、俳優ロバート・デ・ニーロは大統領候補だったドナルド・トランプについてこう言った。

 

「あからさまに愚かだ。チンピラだ。犬だ。豚だ。詐欺師だ。嘘ばかりついている。自分が何を言っているのかわからず、やるべきことをせず、気にもかけず、社会を利用し、税金も払わない馬鹿野郎だ。間抜けだ。コリン・パウエルが言ったように、彼は災いであり、この国の恥だ。この阿呆を、こんなところまで来させてしまったことに腹が立つ。奴は『人の顔を殴りたい』と言っているみたいだが、俺があいつの顔面をぶん殴ってやりたいよ!」

 

 彼のビデオは、選挙投票を促すキャンペーン「#VoteYourFuture」の一部として採用するにはあまりに過激だとみなされ、ボツになった。しかし、デ・ニーロのキャラクターを完璧に捉えたこのビデオは、別途公開されることになった。彼はタイムリーで、シリアスで、ダイレクトで、恐れを知らず、感情的で、知的で、反体制的で、マッチョで、明快で、リズミカルで、政治的で、怒っている男なのだった。

 

 その声は今もなお人々を魅了し続けている。そしてこの激しい独白は、かつて彼が主演した映画『タクシードライバー』(1976年)のトラヴィス・ビックルの名セリフ “You talkin’ to me?(俺に用か?)”を思い起こさせる。この力強さは、ニューヨークの芸術家である両親から受け継いだものかもしれない。

 

 母のヴァージニア・アドミラルは、作家アナイス・ニンのために官能作品を書いた画家。父のロバート・デ・ニーロ・シニアは、画家ウィレム・デ・クーニングと同じ抽象表現主義のサークルで絵を描いていた。父親は自身がゲイであることに気づいたため、ふたりは離婚したが、父と息子の友人関係は続いた。やがて息子は、生涯芸術家として評価されることがなかった父親についてのドキュメンタリー番組を制作したり、『アウト・マガジン』誌のインタビューで、父より同じ名前を持つ自分のほうが有名になったことについて涙したりしていた。

 

 デ・ニーロ・ジュニアは、偉大な演技指導者ステラ・アドラーに師事し、彼女がこれまで教えた生徒の中で一番だと言わしめた。映画『バング・ザ・ドラム』(1973年)の瀕死のメジャーリーガー役で注目を集め、さらに『ミーン・ストリート』(1973年)でマーティン・スコセッシ監督と初めてタッグを組み、無軌道な青年ジョニー・ボーイ役を演じた。映画評論家のポーリーン・ケールは、『ニューヨーク・タイムズ』紙にこう書いている。

 

「この子はただ演技をするだけでなく、映画の世界の中に飛び込んでいく」

 

 

 

 

 デ・ニーロは、実はソニー・コルレオーネ役で『ゴッドファーザー』のオーディションを受けている。フランシス・フォード・コッポラ監督は「素晴らしいが、あまりにも殺し屋的すぎる」と評し、最終的に起用しなかった。

 

 しかしその存在感と演技力を心に留めていたコッポラ監督は、『ゴッドファーザーPART II』(1974年)で、デ・ニーロを若き日のヴィトー・コルレオーネ役に抜擢。デ・ニーロは、シチリア島に住んで方言をマスターし、観客の目を釘付けにするような演技を披露。初のオスカーを獲得した。

 

 それはマーロン・ブランドの演技に勝るとも劣らないと評された。ブランド自身もこう語っている。

 

「彼は自分がどれだけ素晴らしいかを知っているのだろうか」

 

 デ・ニーロ役作りに対する執念は有名だ。タクシードライバーを演じる前には、実際にニューヨークでタクシー運転手として働いた。『レイジング・ブル』(1980年)ではプロボクサー以上のトレーニングをこなし、引退後のボクサーを演じるため4ヶ月で25kgも体重を増やした。

 

 こうして彼は、映画史上最も有名な反逆者や完璧主義者のキャラクターを生み出した。デ・ニーロはそんなキャラたちを「無秩序と規律の混合」と表現している。タクシードライバーの狂信的なファンだったジョン・ワーノック・ヒンクリーは、映画の世界にのめり込みすぎて自らをトラヴィスだと勘違いし、ロナルド・レーガン大統領暗殺未遂という事件を起こした。

 

 デ・ニーロほど、さまざまな役柄を演じた役者はいない。まず思い浮かぶのは、暴力や犯罪の匂いがするキャラクターである。『ディア・ハンター』(1978年)、『レイジング・ブル』(1980年)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)、『アンタッチャブル』(1987年)、『グッドフェローズ』(1990年)などの作品で見ることができる。

 

 また、孤独な誇大妄想狂も得意とするところだ。『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』(1982年/彼が出演した中で、最も過小評価されている映画)で、その演技を披露している。

 

 あえてリスキーな作品に挑戦する監督の作品にも積極的に出演した。ベルナルド・ベルトルッチの『1900年』(1976年)、エリア・カザンの『ラスト・タイクーン』(1976年)、テリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』(1985年)、クエンティン・タランティーノの『ジャッキー・ブラウン』(1997年)などだ。

 

 コミカルな役もこなしている。『アナライズ・ミー』(1999年)、『ミート・ザ・ペアレンツ』(2000年)などである。『世界にひとつのプレイブック』(2012年)では、デヴィッド・O・ラッセル監督のもと、思慮深い仕事をこなした。CIAの誕生を描いたドラマ『グッド・シェパード』(2006年)では、自らメガホンをとり監督を務めた。

 

『アンタッチャブル』のブライアン・デ・パルマ監督は、デ・ニーロを「カメレオンのような男」と評している。デ・ニーロはインタビューをほとんど受けず、スクリーンの外では謎が多い人物である。俳優・映画監督のビリー・ボブ・ソーントーンはかつてこう言った。

 

「他の俳優なら、実生活ではどんな人かなんとなくわかるんだけど……、デ・ニーロに関しては、まったくノーアイデアだ」

 

 1987年、『ヴァニティ・フェア』誌は彼を“シャドー・キング”と呼び、『ガーディアン』紙は“アメリカ演技界のモビー・ディック。スクリーンでは力強く、人前では気まぐれ”と評した。

 

 

 

 

 ある夏、若き日のデ・ニーロはアイルランドからイタリアまで、自らのルーツを探すためにヒッチハイクの旅に出た。自分のアイデンティティを見極めたかったのかもしれない。昔から彼には、得体の知れないところがあった。ある同時代人は、彼の膨大な変装のワードローブをこう表現したことがある。

 

「彼はウォークインクローゼットを持っていた。それはまるで劇場の舞台裏の衣装室のようだった。彼は考えられる限りのさまざまな衣装を持っていた。帽子だけでも、ダービーハット、麦わら帽、キャップ、ホンブルグなど、いろいろな種類があった」

 

 時折、享楽的な一面も垣間見える。大親友のコメディアン俳優ジョン・ベルーシとはプレイボーイ・マンションによく出入りし、コカインをやっていた(デ・ニーロは、ベルーシが過剰摂取で死亡した夜、L.A.のホテル、シャトー・マーモントの部屋にいたという)。2度の結婚の間には、ユマ・サーマン、ホイットニー・ヒューストン、ナオミ・キャンベルと浮名を流した。

 

 彼はビジネスに対する直感と、それをコーディネイトする完璧なセンスも持っており、レストランNOBUを共同設立し、トライベッカ映画祭を主宰し、ニューヨークのザ グリニッジ ホテルとホテル内のイタリアン・レストラン、ロカンダ ヴェルデを所有している。

 

 そして2023年5月には、79歳にして第7子が生まれたことを明かした。

 

 彼は生粋の民主党議員である。デ・ニーロのトランプに対する怒りは、トランプに投票するような人々の間で彼の人気が高いことを考えると、最も強力なネガティブ・キャンペーンだったかもしれない。

 

 デ・ニーロが表に出ることを嫌うのは、それ自体が大きな役作りの一環であるとの指摘もある。役柄作りに没頭するために、あえてプライベート・ライフを消しているのかもしれない。

 

 とにかく彼はアメリカ映画のグランドマスターである。知性と暴力を併せ持ち、悲劇的な輝きを放ち、興味深く、繊細で多才で、フレッシュで不可解である。普段は静かだが、声を上げれば誰よりも存在感を示すことができる。

 

『キング・オブ・コメディ』の主人公、ルパート・パプキンは、「一生マヌケでいるより、ひと晩だけ王様でいる方がいい」と言った。しかし、デ・ニーロが望む限り、エンターテインメント界の王冠は、ずっとデ・ニーロの頭上にあるだろう。