ON HER MAJESTY'S DESIGN SERVICE

女王陛下のデザイナー:ハーディ・エイミス

March 2023

ハーディ・エイミスは、かつて確実に英国を代表するデザイナーだった。トラディショナルに対する深い造詣と、ノーブルなエレガンスは、エリザベス女王をはじめとする英国王室をも虜にした。

 

 

text kentaro matsuo

 

 

 


Hardy Amies/ハーディ・エイミス

1909年ロンドン生まれ。第二次大戦中はSOE(英国情報部)に勤務。復員後、1946年にサヴィル・ロウに自身の店を持つ。ブランドはエリザベス女王2世よりドレスメーカーとして王室御用達を賜り、世界的人気ブランドに成長。1989年にはナイトに叙せられる。2003年死去。

 

 

 

 

“衣服は品位をあらわすと同時に飾りであり、ものごとの一番の真実をもあらわす” ― エリック・ギル『衣服』(1930年)

 

 これは英国のデザイナー、ハーディ・エイミス(1909 〜 2003年)が著した紳士服の指南書『イギリスの紳士服』(原書初版1994年/日本語訳・森秀樹)の冒頭に掲げられている言葉である。

 

 

 

英国きっての“うるさがた”

 

 ハーディ・エイミスは、英国を代表するデザイナーであった。女王エリザベス2世の衣装を数多く手掛け、主にレディスのクチュール作家として知られていた。1955年には女王より王室御用達を賜わり、1989年にはナイトの称号を送られ、亡くなるまでこれを保持した。だから彼のことは、エイミス卿と呼ばなければならない。

 

 エイミス卿は、メンズ・ファッションにおける“うるさがた”としても知られていた。前著をはじめ『JUST SO FAR』(1954年)、『ABC OF MEN’S FASHION』(1964年)、『STILL HERE』(1984年)など多くの著作があり、ブリティッシュ・トラッドの第一人者として名を馳せていた。

 

 ハーディ・エイミスの本拠地は、ロンドンのテーラー街として知られるサヴィル・ロウ、14番地にあった。筆者は90年代中盤に、ここを訪れたことがある。エイミス卿はゲイであったため(そればかりが理由とは限らないが)、ここで働いていたスタッフは麗しき美青年ばかりだった。生前の彼は、安楽椅子にどっかりと腰を掛け、後年のトレードマークとなった大きな眼鏡をかけて、愛用のステッキを振りかざしながら、彼らに指示を与えていたものである。

 

 プライベートでは、パートナーのケン・フリートウッド(ハーディ・エイミス社のデザイン・ディレクターだった男性)と、1996年にフリートウッドが亡くなるまで、43年間連れ添った。

 

「男は知性をもって服を買い、注意深く着て、そのことをすっかり忘れたように見えるべきだ」というのは、彼の最も有名な言葉である。

 

「座るたびに、スーツに間違った場所からアイロンをかけていることを忘れてはならない」とも言っている。

 

 

英国ロンドンで行われたシルバー・ジュビリー・ウォークアバウト(即位25周年を記念した公式行事)で人々の歓迎を受けるエリザベス女王2世。ハーディ・エイミスがデザインした衣装をを纏っている(1977年6月7日)。

 

 

 

フランス語とドイツ語に秀でる

 

 エイミス卿は、1909年7月17日ロンドンのマイダヴェールでエドウィン・エイミスとして生まれた。父親は地方自治体の建築家、母親はロンドンのファッション・ブティックの販売員だった。10代で母親の旧姓であるハーディを「響きがいいから」という理由で、ファーストネームとして名乗るようになった。

 

 エセックス州のブレントウッド・スクールで教育を受け、1927年に退学した。当初はジャーナリスト志望であったという。フランス語とドイツを学ぶために留学し、3年間を欧州で過ごした。語学に秀でていたことは、後の彼のキャリアにおいて、いつも有利に働いた。

 

 英国に戻ったエイミス卿は、1930年に壁タイル工場で営業アシスタントとなり、その後バーミンガムの計量機器会社W.&T.エイブリーにセールスマンとして入社した。

 

  エイミス卿がファッションの世界に入ったのは、母親のファッション界へのコネクションと、その文章力によってであった。あるドレスの鮮やかな描写が、メイフェアのクチュールハウス“ラシャス”のオーナーの妻の目にとまったのだ。

 

 1934年、25歳のときに同社のマネージング・ディレクターに就任。1937年、ツイードスーツ“パニック”のシリーズをデザインした。セレブのフォトグラファーとして知られるセシル・ビートン卿が撮影した写真がファッション誌『ヴォーグ』に掲載され、パニックは大ヒットとなった。1930年代後半には、ハーディはラシャスのすべてのコレクションをデザインするようになった。

 

 


映画『2001年宇宙の旅』(1968年)のワンシーン。エイミス卿がデザインした未来的コスチュームを纏った宇宙船のCA。この後筒状の壁を上るシーンに誰もが驚いた。

 

 

 

大戦中は情報将校だった

 

 しかし1939年、第二次世界大戦が勃発した。エイミス卿は兵卒として入隊し、その後、語学堪能であったことから、SOE(特殊作戦局)に配属された。ロンドンのベイカーストリートにあったSOE本部に勤務し、ベルギーのレジスタンスと協力して破壊工作を遂行した。

 

 ファッションアクセサリーの名前を合言葉にした作戦を実行し、少なくとも2人の男性を殺害した。その功績により、1946年にベルギーからナイトの称号を授与される。最終的には中佐にまで昇進し、1946年、特別近衛士官となった。

 

 SOEの指揮官であったコリン・ガビンズ少将は、洋服屋が軍人にふさわしいとは考えていなかったが、彼の訓練報告書にはこう書かれていた。

 

“この将校は、その外見から想像するよりも、肉体的にも精神的にもはるかにタフである。頭脳は鋭く、抜け目のないセンスに富んでいる。唯一の問題はその尊大な外見と態度である”

 

 エイミス卿は戦争中でもデザイン活動を許され、ウォース社の輸出用コレクションをデザインするため、2度にわたる特別休暇を与えられている。

 

 

1945年以来の本拠地であったロンドン、サヴィル・ロウ14番地のショールーム兼アトリエにてボーズをとるエイミス卿(1982年)。

 

 

 

サヴィル・ロウ14番地

 

 戦後の1945年、ラシャス時代の顧客だったジャージー伯爵夫人ヴァージニア(ケーリー・グラントの元妻)が、資金を提供し、サヴィル・ロウ14番地にあった爆撃で破壊された家を買い取り、自身のメゾンを開いた。そのコレクションはラシャスで磨いた技術に生来のセンスを加えた素晴らしいものだった。彼の服は戦争でクチュールから遠ざかっていた顧客たちを魅了し、ビジネスはアメリカを中心として国際的に発展した。

 

 エイミス卿は当時、“女性の晴れ着は、ソールズベリー駅でもリッツのバーでも同じように美しくなければならない”といいう言葉を引用している。1954〜56年には、ロンドン・ファッション・デザイナー協会の副会長、1959〜60年には、会長として活躍した。王立産業デザイナー院会員にも選ばれた。

 

 エリザベス女王との関係は1950年のカナダへのロイヤルツアーのために、エイミス卿がいくつかの衣装を製作したことから始まった。1955年、公式ドレスメーカーとして英国王室御用達となったことで、彼のメゾンはますます名声を得ることになった。1977年に女王の銀婚式のためにデザインしたガウンは、最も有名な作品のひとつとなった。

 

 王室関係者や貴族のほかにも、女優ヴィヴィアン・リー、デボラ・カー、英国最初のスーパーモデルであったバーバラ・ゴーレンなど、多くのセレブリティが彼の服を愛した。

 

 

 

パイオニア精神に溢れる

 

 メンズウェアについても先駆者であった。1961年、ハーディ・エイミスは、ロンドンのサヴォイ・ホテルで、初のメンズ・プレタポルテのショーを開催した。このランウェイショーでは、初めて音楽が演奏され、デザイナーがショーの最後に出てきてウォークし観客に挨拶するなど、今では当たり前となったが、当時としては画期的だったさまざまな試みが行われた。

 

 1966年のワールドカップでは、イングランド代表の衣装を担当したが、これはファッションデザイナーとしては初の試みだった。彼は、ホームウェアに進出した最初のファッションデザイナーでもあった。

 

 

 

2001年宇宙の旅

 

 1967年、エイミス卿は、スタンリー・キューブリック監督から、SF映画の金字塔、『2001年宇宙の旅』(1968年)の衣装デザインを依頼された。トラディショナルな意匠を得意とする彼が、この作品では、完全に未来的なコスチュームを作り上げた。ロバート・S・セネットの『Setting the Scene』(1994年)によると、この映画のデザイン要素は、1960年代半ばのスウィンギング・ロンドンを反映しているようである。

 

 無重力であるため、ネクタイはなし。ホテルの受付嬢や航空会社のCAは宇宙時代の旅行帽をかぶり、床にくっつくマグネットシューズを履いて、手提げ袋を持っている。この映画は、アカデミー賞4部門にノミネートされ、視覚効果賞を受賞した。その後もカルト的な人気を保ち、現在でも多くのファンを抱えている。

 

 

 

エイミス卿の死、そして斜陽

 

 ちなみに、エイミス卿は大の日本好きであり、その著作の中で、

 

“日本人は過去20年にわたり、われわれのスタイルを自信を持って着こなしている”

 

“私と私のスタジオは、20年間日本と仕事をしている。最初はスーツに2つ、3つ、4つ、または5つのボタンをつけられると説明するのは難しかった。しかし、日本人は自らの伝統に不誠実にならない範囲で、西洋の服を着こなすようになった。彼らは、そして私たちの協業は必ず成功する”

 

 などと述べている。

 

 1990年代までには、世界中でライセンス提携し、日本でもハーディ・エイミスの名を冠した多くの商品が売られていた。しかし、そのうちのいくつかは、ただロゴ入りの刺繍を大きく貼り付けているだけというものもあり、本来のエイミス卿のフィロソフィーからは、少々逸脱しているものもあった。

 

 2001年に、エイミス卿が引退し、2003年に没すると、ブランドは急速に斜陽となり、2008年に一度倒産した。2019年には、サヴィル・ロウの店もクローズされた(現在この地には、ハケット ロンドンのフラッグシップ・ショップ “J.P.ハケット”がある)。

 

 しかしながら、エイミス卿が示した英国のノーブルなエレガンス、トラディショナルは現在に至るまで、脈々と受け継がれている。“女王陛下のデザイナー”と聞いて、英国人が真っ先に思い浮かべるのは、今でもハーディ・エイミスなのである。

 

 


エイミス卿の著書『THE ENGLISHMAN’S SUIT』、日本版『ハーディ・エイミスのイギリスの紳士服』(森秀樹訳/大修館書店)もあり。