September 2016

THE PARTHENON OF PUNK

パンクの聖地、CBGBの伝説

text charlie thomas
issue01_05_02

ブルース・フォクストン、リック・バックラー、ザ・ジャムのポール・ウェラー(1977年)


ビジネスとしてのパンク
 クリスタルは賢明な起業家ではなかった。入場料を取らず、ドリンクをタダでふるまうこともしばしばだった。しかし、そうした彼の無頓着さは、バンドのブッキングに適用されたときは、ひとつの個性になった。

 ヒリー・クリスタルは気づいていなかったが、熱いマグマが、ポピュラー・ミュージックの噴火口に向かって上昇しつつあったのだ。型通りのポップは退屈となり、ディスコ・ムーヴメントや60年代後半から70年代前半にかけてますます大仰になっていったロック、例えばエマーソン・レイク&パーマー、ジェネシス、イエス、キング・クリムゾンなどは、若い音楽ファンに相手にされなくなっていた。

 長ったらしい曲やもの悲しい歌詞、それにリードギターというものすらも、古臭く感じられるようになった。ザ・フー、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ザ・ストゥージズが、ロック自体を変えていたのだった。そうして出てきたものは、“カントリー、ブルーグラス、ブルース”とは、もうほとんど関係なくなっていた。

 テレヴィジョン、ラモーンズ、リチャード・ヘル、パティ・スミス、ブロンディ、トーキング・ヘッズ、ザ・ランナウェイズ、ジョニー・サンダースといったアーティストたちがメジャーになると、自分たちもステージで才能を見せつけ、レコード契約を獲得したいと思う人々が続々と現れた。クリスタルは、彼らにチャンスを与えた。彼には寛容なハート(彼はこの頃よくホームレスの人々に仕事を与えていた)と、才能をとらえる耳があった。

 クリスタルの娘でCBGBのマネージャーであるリサの優れた商才、そしてパンチのある出演者たちのおかげで、クラブは70年代半ばには採算がとれるようになってきた。その時点では、まだクリスタルは知る由もなかったが、エントランスの上に掲げられたCBGBのロゴは、その後無数のTシャツやその他の商品に印刷され、彼に莫大な富をもたらすことになるのだった。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 10
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