THE LEGEND THAT WILL NEVER DIE
チャーチルを知らずして、英国は語れず。
April 2018
ヘンリープールが仕立てたチョークストライプのスーツを身に着け、ハートルプールの防衛施設を視察(1940年)
もどかしい日々 チャーチルの初期のキャリアは、1915年のガリポリの戦いでの致命的な失敗とともに終わった。英国とアイルランドの兵士73,000名が死傷し、ニュージーランドまでもが8,000名に及ぶ甚大な損害を被ったのだ。
翌1916年、保守党が連立政権の一翼を担うと、チャーチルは政府を離れるよう要請された。彼はその後、西部戦線で大隊長として過ごした。
1920年代と30年代は、チャーチルにとってもどかしい日々が続いた。自由党と袂を分かった彼は、結局保守党に復党した。中年を迎えたチャーチルは、自分の命が有限であることや、自らの野心がまだ叶えられていないことを改めて思い知った。
1920年代には、同じハロー校出身者であるボールドウィン首相から、財務大臣への就任を提案されるという出来事があった。チャーチルは「Will the duck swim?(当たり前だ)」と快諾したと伝えられる。だが財務相時代は、自らの強みを生かせず、ゼネストに四苦八苦した。
1930年代になると、チャーチルと保守党の実力者らの間にまたもや不協和音が生じた。インドに自治権を認めようとする法案を巡り、チャーチルは保守党の執行部と対立関係になった。チャーチルは、インドの独立運動の英雄であるガンジーを次のように形容した。
「扇動的な一弁護士が、今や東洋によくいるタイプの行者を気取り、王の宮殿への階段を半裸で駆け上がっている……」
インドの多くの人々は、彼のこうした発言を決して許さないだろう。
不屈の精神と象徴として チャーチルが海軍大臣としてようやく内閣に呼び戻されたのは、1939年にナチスドイツへの宣戦布告がなされたときだった(第一次世界大戦の開戦時にも、彼はまったく同じポストに就いていた)。彼はこう宣言したという。
「我らは再び、命と名誉を守るべく、強大なドイツ民族の猛威に戦いを挑まねばならない。再戦だ! 上等ではないか!」
1940年5月、辞任したチェンバレンに代わり、チャーチルは65歳という高齢で首相の座を手にした。当時、チャーチルは間違いなく、首相に適した唯一の人間だった。
議員として何十年も過ごしてきた彼は、雄弁術に精通し、言葉やフレーズを使いこなす天賦の才に恵まれていた。また、政治のあらゆる分野にわたる経験を持っていた。最大の苦境に陥った英国を率いるのに、チャーチルより適格な人間はいなかったのだ。
彼の情熱、愛国心、ひたむきさを否定できる者は誰もいなかった。「The few(少数の人々)」、「The end of the beginning(始まりの終わり)」、「We shall never surrender(我々は決して降伏しない)」などのフレーズは、あまたの英国人を鼓舞しただけでなく、不屈の精神を表す英語の決まり文句として定着している。
そしてついにドイツを打ち破り、英国は勝利を掴んだのだ。
1955年、首相官邸に最後の別れを告げたとき、彼は80歳になっていた。人々はひとつの時代が終わろうとしていると感じた。チャーチルは、生ける伝説というべき地位に登りつめていたのである。
奇しくも70年前に逝去した父親の命日である1965年1月24日に、チャーチルはこの世を去った。
しかしチャーチルは、著作や演説を通じて、今も生き続けている。世界中で自由を象徴し、勝ち目のなさそうな状況に対する、果敢な抵抗のシンボルとなっている。そのあり方は、英国人政治家として過去に類を見ないものなのである。