RETURN OF THE PRODIGAL
フジタ、その愛と芸術
August 2018
亡者のように組み打つ男性や動物、逃げ惑うように眺める女性が対照的に描かれている。Combat I Léonard Tsuguharu Foujita 1928, huile sur toile, 299,7 x 301,6 x 4,7 cm Maison-atelier Foujita, Conseil Départemental d’Essonne, Evry France, photographie Laurence Godart
© Fondation Foujita / Adagp, Paris, 2018
戦中の日本では最終的に陸軍美術協会理事長にまでなって、戦後にGHQの追及を受ける身だったにもかかわらず、マッカーサーの差配によってニューヨークを経由し、後から合流した夫人を伴って1950年に再びフランスに渡ることができた事実は、藤田の置かれた複雑な立場、そして分類不可能なまでの特殊な影響力を物語る。戦争協力者の疑いをかけられつつも、第二次大戦の戦火が広がるはるか以前、1925年に当時のベルギー王室とフランス政府から芸術への貢献によって勲章を授けられていた彼は、それだけ西欧でも名の通った重要な文化人だったのだ。
女性と猫を愛したパリの異邦人 家族には3年間の滞在という約束で1913年8月、藤田はパリで荷を解いた。モンパルナスに居を構え、他の画家と交流して芸術的刺激を受けながら、伝説の放蕩で知られたダンディ、バロン薩摩の知己を得るなどして、初めての個展を開いたのは1917年のことだった。
浮世絵を通じてジャポニスムが半世紀以上も前から絵画の世界でもてはやされたパリで、西洋風の主題を東洋風のテクニックで巧みに切り取って見せる藤田の作品は、瞬く間にその第二波として注目を集めた。芸術家たる者は身に着けるもの一切も芸術品たれという考えを持っていた藤田は、第一次大戦後の好景気と平和に沸く狂乱の時代のパリで、まさしく寵児として、かつ奔放なダンディとして知られた。日本で駆け落ちまでした妻がいたにもかかわらず、パリではモデルを務めた女性を次々と伴侶として迎えるなど、女性遍歴も派手だった。
まだ幼い中性的な美少年。犬よりむしろ猫を頻繁に描いたとはいえ、無垢なるものに関心を寄せる実に藤田らしい一枚。Portrait d’un garçon Léonard Tsuguharu Foujita 1923, huile sur toile avec feuilles d’or sur le fond Collection particulière USA
© Fondation Foujita / Adagp, Paris, 2018