From Kentaro Matsuo

THE RAKE JAPAN 編集長、松尾健太郎が取材した、ベスト・ドレッサーたちの肖像。”お洒落な男”とは何か、を追求しています!

服飾界の大御所にして、売れっ子ユーチューバー
赤峰幸生さん

Tuesday, January 25th, 2022

赤峰幸生さん

インコントロ代表取締役、ファッション・ディレクター

text kentaro matsuo  photography natsuko okada

 メンズ・ファッション業界で、もっとも尊敬を集める大御所、赤峰幸生さんのご登場です。紳士服に携わっている方なら、知らない人はいないでしょう。私が初めてお会いしたのは、1994年のメンズ・イーエックス創刊からまもなくだったと記憶していますので、もう四半世紀にわたって諸々ご教示頂いておりますが、いまだにその造詣の片鱗をも掴み取れていません。

 

 当時はY.AKAMINEというご自分のブランドを全国のセレクトショップで展開なさっており、私もよく購入していました。そのうちの何着かは、今でも愛用しています。真のクラシック・スタイルは、何年経っても古びないものです。

 

 最近では、カスタムクロージングのAKAMINE Royal Lineを展開。YOU TUBEやインスタグラムにもご活躍の場を広げられており、若い世代のファンも増えていると聞きます。動画の再生回数は、多くが数万回を超えています。

「YOU TUBEの動画は、もう何百本も制作しました。でも何かを宣伝するためではない。なんでも好きなことを喋っていいというから、受け継いできたクラシック・スタイルの知識を、伝えるためにやっているのです。インスタグラムもほぼ毎日、自分の格好を自撮りしてアップしています。これはもう日記のようなものですね」

THE RAKEのインスタでも、もっとも「いいね!」の数が多いのは、赤峰さんの写真なのです。衰えを知らぬご活躍ぶりに、ただ頭が下がります。

「昨年からは地方も積極的に回っています。名古屋、大阪、京都、博多など日本全国でAKAMINE Royal Lineのトランクショーを行い、のべ2千人近いお客様に集まって頂きました。私の仕事は洋服の医者のようなものです。まずはじっくりと問診し、その上で処方を申し上げます」

お客様とは「あなたには、ダブルのスーツが似合いますよ」、「いや1回も着たことがありません・・」、「絶対に大丈夫。そしてタイとシャツはこれこれを選び、ホーズはこういったものを合わせてください」といったやりとりが繰り広げられているそうです。

 

 JCS(ジャパンクラシックスタイル)という会費制のセミナーも好評です。

「川崎では全国から集まった50人の方々を前に、5時間ぶっ通しでお話ししました。参加者には、女性の方も多いのですよ。また京都へ行ったときは、大学教授や医学部長といった方々に混じって、スーツをビシッと着こなした、とても若い方がお見えになっていました。年齢を聞いたら、なんと中学3年生だという。『君、まだ収入はないだろう。どうやって来たんだい?』と聞いたら、『先生のお話が聞きたくて、10km以上を歩いて来ました。参加費は親に頼み込んで、10万円の給付金を前借りしました』というのです。これには驚きましたが、若い人たちがクラシックに興味を持ってくれるのは喜ばしいことです」

 本日のスタイルは、爽やかなホワイトのグラデーション。

 

 ジャケットは、AKAMINE Royal Line。

「英国のブリスベンモスの生地を使っています。コーデュロイとしては鉄板の生地メーカーです」

 ホワイト・フランネル製のトラウザーズもAKAMINE Royal Line。

シルクカシミアのタートルニットはジョンスメドレー。

 

 貧乏性の私が思わず、赤ワインやトマトソースをこぼしたら大変ですね、と言ったら、

「それもまた味です」との鷹揚なお答え。

「以前、金沢のきんつばで有名な甘味処で、給仕の方にモールスキンのパンツの上に、ばしゃりと抹茶をかけられてしまったことがありました。あわててクリーニングをしてくれたのですが、どうしても抹茶の緑色が取れない。先方は大変恐縮して『買い取らせてください』と仰ったのですが、私は『それなら、きんつばを送ってください』と笑いながら申し上げました。そうしたら毎月1回1年間も、美味しいきんつばが送られてきましたよ(笑)。私は汚れもまた味だと思っています。欧州の人はクルマも靴も、日本人みたいにピカピカにはしないものです」

 

 胸に差しているシルクチーフは、わずかにベージュがかっています。

「これは紅茶を使って自分で染めたのです。私はどうしても色について敏感なところがあって、もともと真っ白だったものを、6〜7時間も煮込みました。紅茶はスーパーで買ってきた日東紅茶でした(笑)」

 

 メガネは、白山眼鏡店。

 時計は、ニューヨークで買った、ティファニーの1960年代のヴィンテージ。

 シューズは、オールデンのローファー。数百はあろうかという靴コレクションから、その場でひょいと選んでくれました。

 

「今日のテーマはライチョウです。雪の季節になると、全身を白でまとめたくなります。私はショップ・リサーチなんて、まるでしません。色遣いは、いつも自然からヒントを得ています。自然界は最高の色見本帖ですね。今朝は庭先にメジロが飛んで来たのですが、あのグリーンを、ローデンクロスに乗せられないかと真剣に考えました(笑)」

 リヴェラーノ&リヴェラーノを中心とする、色調ごとにまとめられたワードローブは、“素晴らしい”のひとことです。これを見たさに、ジェイミー・ファーガソンなど、海外の有名ファショニスタが、川崎市高津区のアトリエを訪れるほどです。世界一のストリート・フォトグラファー、スコット・シューマンも、「アカミネのワードローブが見たい」と言っているそうです。

 さて、そんな赤峰さんのご出身は東京・碑文谷です。幼稚園はサレジオ、3軒隣にはヤナセ創業者の梁瀬長太郎さんの家があったというから、典型的なお坊ちゃんだったのでは?

「赤峰家はもともと熊本の地主で、山も持っており、東京の家もそれなりに大きかったのですが、父・赤峰倫介は地理学者でそんなに収入は多くなかったと思います。部屋数が多かったので、家には下宿人が二組住んでいましたね」

 

 中学時代に、人生を決定づけたものに出会います。それは映画です。

「書籍取次会社のトーハンに務めていた親戚がいつも『映画の友』や『映画芸術』などの雑誌をくれたのです。ケーリー・グラントやマルチェロ・マストロヤンニ、ヴィットリオ・デ・シーカなどの俳優たちに夢中になりました。彼らの着ているものを見て『カッコいいなぁ』と憧れ、切り抜いてスクラップブックに貼り付けていました。これがファッションに興味を持ったきっかけでしたね。正月にお年玉をもらうと、雑煮を食べるのもそこそこに、渋谷のパンテオンや学芸大学のユニオン座などの映画館へ駆けつけていました」

 その傍ら、絵画の学校に通い、叔父である社会学者・清水幾太郎さんの薦めでデザインの道を志すことに。

「バウハウスの思想を継承した桑沢デザイン研究所でディオールやバルマンのオートクチュールを学び、セツ・モードセミナーでファッション画を勉強しました。当時のセツには高田賢三さんや三宅一生さんなど、後に世界的デザイナーとなった人たちが通っていました」

 セツ・モードセミナー校長、故・長沢節さんは私も遠目に見たことがあります。この世界に入って、生まれて初めてファッション・ショーなるものを見に行ったときに、一番前の席に座って衆目を浴びていたのが節さんでした。へぇ、フロントローには、ああいう人が座るんだ・・と目を丸くしたことを覚えています。ちなみに隣は文化服装学院学院長の小池千枝さんで、このふたりは日本におけるファッション・デザイン界の父母のような存在です。

 

 その後、アルバイトで当時上野にあったJUNの企画部に入ります。

「佐島マリーナに係留されていた森繁久彌さんの豪華ヨットで、カタログ写真を撮ろうということになりました。モデル役は私で、撮影を担当したのは日大芸術学部写真科にいた大楠裕二さん。彼は後に菊池武夫さんや稲葉賀恵さんと一緒にビギを設立した男です。銀座・みゆき通りの東京モードセンターの2階にあったJUNのショップには、私の写真がいっぱい飾られていましたよ(笑)」

 

岩本町の安藤商店のメンズブランドhunt、市谷田町のエフワン、伊藤紫朗さんのマクベスなど「VANとは、またちょっと違った・・」トラッドに関わりつつ、1974年に伝説的ブランドWAY-OUTを設立。

「ブランド名のWAYというのは“体制”のこと。そこから逸脱するという意味でOUTを組み合わせました。そしてBUT CLASSICと続く。針と糸巻きのマークを考えたのも私です。フォックスブラザーズのフランネル生地などは、さんざん使い倒しました。よく買ってくれたのは横浜・信濃屋の白井さん。当時のお客さんとは、今でもお付き合いがあります」

 

 82年には、やはりレジェンダリーなグレンオーヴァーを創立。

「三政というシャツ卸の会社社長から、『アパレルをやりたいので力を貸して欲しい』と言われました。『どのくらい金が必要か?』と聞かれたので『まぁ2億くらいでしょうか』と答えたら、ポンと出してくれました。グレンとは渓谷の意味。谷を超えていくという意味でつけたブランド名でした。スペイン大使館の横に作った社屋で展示会をやったら、あのポール・スミスがやって来て『やがてお前は、俺のコンペティター(競争者)になるな・・』と言われましたよ(笑)」

 

 そして、90年にインコントロを設立。前述のY.AKAMINEブランドをリリースなさいました。

「100%イタリア生産のブランドにしたくて、イタリア中の工場を見て回りました。20あるイタリアの州のうち、19までは行きました。ミラノに事務所を構えて、年のうち半分はイタリアにいました」

 

オリジナルのハンティング・ジャケット AKAMINE Royal Line

 

 

 

 赤峰さんが特別なのは、服飾以外のイタリア文化も日本に紹介したところです。

「恵比寿のイタリアンレストラン、“イル・ボッカローネ”の監修を任されました。私はイタリアの郷土料理、トスカーナのトラットリアをそのまま日本に持ってきたいと思いました。そこでイタリア人のシェフを入れて、イノシシの肉を炭火で焼きました。今のイタリア料理店では当たり前になっている、入店時の『ボナセーラ!』の掛け声も、はじめたのはイル・ボッカローネが最初なんですよ」

 イル・ボッカローネは一世を風靡したレストランで、私も足繁く通いました。くり抜いたパルミジャーノの中にリゾットを入れて、客の目の前でかき回す料理はここが発祥で、それがイタリアに逆輸出されたものだそうです。

 

 続けて監修を手掛けた広尾の“ラ・ビスボッチャ”においても、トスカーナの郷土料理を忠実に再現し、イタリア政府公認リストランテとして認められました(こちらは現在、赤峰さんの息子さんが働いていらっしゃいます)

 

 そのフィールドはイタリアンにとどまらず、フレンチにも広がり、原宿・東郷神社の隣りにあった“オー・バカナル”1号店のアドバイザーも務められました(ここには村松周作さんをはじめ、当時最高にカッコよかった人々が集まっていました)

また食だけでなく、住関連も手がけられ、白金のインテリア・ショップ、ペニーワイズやコロニアルチェックのオープンにも関わられました。

 

「私にとっては、衣食住すべてが同じなのです。基本としているのは、まっとうなクラシックを大切にするということ」

 このあたりの八面六臂の活躍を綴り出すと、キリがありません。これはいずれ一冊の本になるかもしれませんね・・

まるでジャケットのようなラペルを持つブルゾン AKAMINE Royal Line

 

 現在のAKAMINE Royal Lineでは、再び日本に注目し、我が国ならではのトラディショナルを追求なさっています。

「尾州あたりの生地を使って、じっくりとオリジナルを作っていきたいですね。今日はたまたま冬至ですが、日本人ならばやはり、ゆず湯を張った檜風呂に入って、南瓜(かぼちゃ)を食べたいものです。そういうことは、実は服飾と深い関係があるのです」

 

  喜寿を迎えられた赤峰さんに、その元気の秘密をお尋ねすると・・

「やっぱりお客さんの喜ぶ顔を見たいのです。そのためには健康がいちばん。毎朝5時半に起きて、多摩川沿いをランニングしています。それからラジオ体操第一と第二。最近ではYOU TUBEでB-lifeというチャンネルを見て、ヨガにもチャレンジしています。昇る朝日を眺めていると、『よっしゃ、今日もやったるぜ!』という気分になりますよ」

 ああ、毎朝10時に起床する私も見習わなければ・・

 

「そうだ、松尾さんにLINEで朝日の写真をお送りしましょう」

 そう仰ると、私の携帯を取り上げて、サクサクと“友だち”に追加、iphoneで撮影した、数十枚の美しい写真を送ってくださいました。暁の空をバックに、たくさんの野鳥の群れが飛んでいるような写真です。

 赤峰さんは、服飾における膨大な造詣と詩人のごとき感性、そして今どきの若者のような“テッキー”な一面を併せ持つお方です。