WORN TO BE WILD

モーターサイクル・ジャケットの歴史

March 2022

こんな “ワル”なアイテムはない。モーターサイクル・ジャケットの歴史には、反抗心がたくさん詰まっている。しかし同時に、サルトリア的なニュアンスもあるのだ。

 

 

 

by JOSH SIMS

 

 

 

映画『青春カーニバル』(1964年)のエルヴィス・プレスリー。

 

 

 

「私は持っていません……」。カナダのレザージャケット・ブランド、ヒメル ブラザーズのデヴィッド・ヒメルは後悔しているようだ。「もう少しで手に入れられそうなことはあったのですが。しかし、奇跡でも起こらない限りもう自分のものになることはないでしょう。その価格は天文学的なものになってしまいました」。ヒメルが嘆いているのは、アメリカ西海岸の伝説のブランド、ピータースのモーターサイクル・ジャケットのことだ。しかし彼はすぐに気を取り直し、愛してやまないライバルの存在を語り出した。「マサチューセッツにかつてあったレザートグス社のジャケットは、今まで見たモーターサイクル・ジャケットの中で最も美しい。このようなものは今ではあまり見られません。非常に珍しい」。

 

 ヒメルは、世界でも有数のモーターサイクル・ジャケットのコレクターである。かつて古着屋だった彼は、その情熱が高じて2006年にオリジナル・ブランドを立ち上げた。第二次世界大戦前の名作にインスパイアされたジャケットだ。以来、“ヒメル ブラザーズ”は本格的なディテールと縫製によってモーターサイクル・ジャケットの代名詞となった。「その魅力は、オートバイに乗る人だけにとどまりません。現代においては、反抗的なバイカーやアウトローなライフスタイルとは関係のないところにあります。もちろん、誰もが常にクールでタフな格好をしたいと思っているでしょう。しかしモーターサイクル・ジャケットはそれだけでなく、ともに生活することで自分だけのシワやキズを付け、経年変化させ、それを受け継いでいきたいと思わせるアイテムなのです」。

 

 ヒメルはそういうジャケットを、彼の周りにいる人々に提供してきた。彼の理想を叶えて作ったジャケットの魅力は深いところにある。「革を着ることは原始の心を呼び覚まします。人類が最初に身に纏ったのはレザーだったのです」と彼は言う。

 

 おそらく、モーターサイクル・ジャケットの魅力はそこにあるのだろう。レザーという素材は丈夫で、人を皮膚のように包み込み、優雅に歳を重ねてゆく。さらにレザーは、20世紀のポップカルチャーを想起させる。ヘルズ・エンジェルスやヴィレッジ・ピープル、あるいはジョージ・マイケルが1987年に発表したアルバム『FAITH』のジャケットのように。

 

 近年、モーターサイクル・ジャケットは少々変わった使われ方もしている。フォーマルウェアの上に羽織るものとして着られているのだ。エグゼクティブがパワーを強調するために、役員会にノートンで到着したかのような印象を与えようというわけだ。また数年前には、トム・フォードが幼児用のジャケットを作ったこともあった。

 

 

映画『乱暴者』(1953年)のマーロン・ブランド。

 

 

 

 象徴的なバイカースタイルは、第二次世界大戦後に登場した。ロールアップしたジーンズ、バックルの付いた重いエンジニアブーツ、Tシャツ、デニムジャケットなどを取り入れたもので、アメリカの無骨で労働者階級を表すスタイルだった。中でも、レザー製のモーターサイクル・ジャケットが決め手だった。ブラックレザーの持つフェティシズムやファシズムといった意味合いが、バイカーのアウトサイダーとしての主張をさらに高めていった。

 

 着用者の多くはタフ・ガイ”と思われる存在だった。中には、ジャケットに“1%er(ワンパーセンター)”というワッペンを付けている者もいた。このワッペンは、1947年の7月4日に、カリフォルニアの小さな町ホリスターで大規模なオートバイ集会が開催されたことに由来している。マスコミはその混乱を“ホリスター騒動”としてセンセーショナルに報じた。その際にコメントを求められた全米モーターサイクリスト協会は、「ライダーの99%は法律を守っている」と答えたと言われている。つまり、残りの1パーセントは“無法者”ということだ。

 

 必然的に、多くのバイカーは戦地帰りの兵士で、仲間意識が強く、アドレナリン中毒になっている者も多かった。彼らが“ワンパーセンター”となっていったのだ。

 

 そんなこともあり、モーターサイクル・ジャケットは危険者のものだと思われるようになった。着る人は信用できず、反社会的であるというイメージが定着した。1953年に公開された映画『乱暴者』で、マーロン・ブランドが演じた暴走族のリーダー、ジョニーが象徴的である。作中でジョニーは、「お前は何が不満なんだ?」と聞かれると、「じゃあ、お前は何に満足しているんだ?」と答えるのである。その後、『The Cycle Savages(原題)』や『イージー・ライダー』(いずれも1969年)などのバイカー映画が続々と公開された。一方英国では、ロッカーズやグリーサーズといった若者たちが現れた。彼らは当時不潔な社会不適合者と見られており(これは誤りであるが)、モッズと常に揉め事を起こしていた。

 

 

ミュージシャン、ブルース・スプリングスティーン(1975年)。

 

 

 

 そういう意味で、イメージはメディアが作り上げたものと言える。まだ映画などの大衆娯楽がなかった時代、モーターサイクル・ジャケットは、“ワル”の象徴というより単なる着る道具だったのだ。モーターサイクル・ジャケットの起源は、19世紀末のオートバイの発明に遡る。初期のライダーたちは、主に軍馬の伝統に基づいた装備を身に着けていた。騎兵用のブーツとグローブ、レザー製のチュニックである。そこから飛行士やドライバーと同様に、より専門的な衣服へと変化していったのである。

 

 特に北米では、1920〜40年代にかけてジャケットメーカーが乱立した。ヘラクレス、ブコ、インディアン モーターサイクル、Rangerette(女性用)、ハーレーダビッドソンなどが地産地消的なレザー・プロダクツを生産していた。例えばアメリカ西海岸では、ウールの供給量が多く、それがスタイルの一部になっていた。東海岸では、ゴムメーカーが靴作りを始めるようになり、そこでレザーを扱うことから副業としてジャケットも作るようになった。現在のモーターサイクル・ジャケットは、多くの試行錯誤の末に生まれたものだ。あの大胆な意匠は、一時的な流行を追ったのではなく、何世代にもわたって機能を追求した結果なのだ。ヒメルが説明してくれた。

 

「初期のジャケットは、着る人の体に合わせて手作業でパターンをカットしていました。バイク用ジャケットのデザインには、標準的な方法は確立されていませんでした。当時の価格は数週間分の給料に値したので、フィット感、動きやすさ、丈夫さにおいて完璧さが求められました。多くのメーカーは互いに模倣し合っていましたが、コピーを重ねる間に、顧客の求めるデザインやアイデアを参考にしながら進化させていったのです。大量生産が始まる前、価格やブランドよりもクオリティやデザインが重要とされていた時代に、メーカーはイノベーションを起こすことができました。こうしてモーターサイクル・ジャケットのデザインは改善され、目的に合った服になっていったのです」

 

 ヒメル ブラザーズの定番のひとつである“スコア”は、今はなきトロントのスコア・スポーツウェア社のデザインをベースにしたものだ。ジッパーは片側のみで、エンジン部品に引っかからないよう、すっきりとしたフロントとなっている。ヒメルはこう言う。

 

「当時のジャケットは、格好をつけるためにデザインされたものではありませんでした。もちろんライダーたちはヒーローのような格好をしたいと思っていましたが、それ以上にまず機能的なジャケットを求めていたのです」

 

 テストは実に原始的なものだった。モントリオールのブリティッシュ・モーターサイクル社では、ジャケットをマネキンに着せ、そのマネキンをトラックの後ろで引きずって、ジャケットの丈夫さをアピールした。この話は、モーターサイクル・ジャケットが決して“上品”とは相容れないものだという事実を物語っている。

 

 

 

東京・原宿のブライスランズがヒメル・ブラザーズに別注したレザージャケット。ゴートレザー製、ヴィンテージ・バックル付き。

 

 

俳優ユアン・マクレガー(2007年)。

 

 

 

 映画は、“ワンパーセンター”の存在を喧伝した。バイカーは常に保安官と敵対するアンチヒーローであるという概念が神話のように定着していった。モーターサイクル・ジャケットを着ることを禁止する高校もあったほどだ。

 

『バック・トゥ・ザ・フューチャーII』(1989年)の作中では、1955年にタイムスリップしたマーティが目立たない服装を求められてショット社の“パーフェクト”ジャケットを購入するというシーンがあるが、モーターサイクルジャケットのデザインを決定づけたのは、間違いなくこのショット社の“パーフェクト”ジャケットである。ラモーンズのギタリスト、ジョニー・ラモーンがバンドメンバーに着せ、双子デュオのバンド・ブロスが愛用したものだ。

 

 ショットの創業者アービング・ショットは世界で初めてカジュアルなジャケットにジッパーを付けた人物だと言われている。それまでは15年間コートを作っていたが、ハーレー・ダビッドソンの販売代理店ベック・インダストリーズ社からライダーを保護する独特のスタイルのジャケット開発を依頼されたのだ。1着5.50ドルだった。

 

 そこにはその後のモーターサイクル・ジャケットの特徴となる多くのディテールが盛り込まれていた。ベルト付きのフロント、ジッパー付きの袖口、襟のスナップボタン、ライディングのアクセスを容易にした複数のポケット(Dポケット、チェンジポケット、サイドポケット)、スタッズ付きのエポーレットなどである。マーロン・ブランドが着ていた1940年代の618モデルはDポケットはなく、ふたつのサイドポケットと角度のついた胸ポケットがつき、よりスリムであった。アービング・ショットの曾孫で、同社のCOOを務めるジェイソン・ショットはこう語る。

 

「今日においてはパンク・ファッションのイメージが強いかもしれませんが、ブランドは明らかにのモーターサイクル・ジャケットのイメージを体現した人物です。ジャケットの魅力が何なのか、私にもはっきりとは分かりませんが、とても強い主張を持っていて、人々を変えるパワーがあるように思います。自分には向いていないと思っている人でも、着るだけで “ワル”になれるのです。 “パーフェクト”は、発売当時は革新的なデザインでしたが、やがて何世代にもわたって支持され、“ワル”のユニフォームとなったのです」。

 

 “ワル”たちの思い込みに反して、アメリカはモーターサイクル・ジャケットの故郷とはいえないかもしれない。リスペクトされているもうひとつのメーカーであるルイスレザーは、120年以上に英国で仕立て屋として設立された。同社のモデル名は“ハイウェイ・パトロール”、“プレインズマン”、“ブロンクス”などアメリカからヒントを得たものだったにもかかわらず、1950年代には英国におけるモーターサイクル・ジャケットの代表的メーカーとなっていた。ブランドやジェームス・ディーンはショットの“パーフェクト”を着ていたが、ジョン・レノン、ミック・ジャガー、スティーブ・マックイーン、そしてセックス・ピストルズ、ザ・クラッシュ、モーターヘッドはもちろん、サーキットやマン島TTレースのレーサーたちもルイスレザーのジャケットを着ていたのだ。

 

 大西洋間の違いは、デザインにも反映されていた。ルイスレザーのジャケットには、特徴的な赤い裏地の他に、アクションプリーツとレザーでカバーされたベルトバックルが付いている。なぜならアメリカのバイクは伝統的にゆったりとした姿勢で乗るものだが、英国のライダーはガソリンタンクの上に低い姿勢でしがみつくようにして跨るからだ。それに、タンクに傷がつくことを頑なに避けていた。ルイスレザー社のジャケットは、納品まで数ヶ月待ちだという。マネージング・ディレクター、デレク・ハリスはこう語る。

 

「今日では技術的に進歩した服はいくらでもありますが、“見栄え”という点ではクラシック・スタイルに敵うものはありません。モーターサイクル・ジャケットはバイクによる移動の危険性がはるかに高かった時代のものです。ヨーロッパであろうとアメリカであろうと、このジャケットは威嚇ではなく勇気を意味しました。初期のライダーたちは人を恐れさせることとは無縁だったのです」

 

 ハリスは続ける。

 

「モーターサイクル・ジャケットに対する認識は変わり続けています。一時は“ワル”の象徴とされましたが、今の若い世代はそんなイメージを持っていないでしょう。新鮮でカッコいいから身に着けているだけ。とはいえ、単なるファッションとして作られた衣服には重みや実体がありません。本物のモーターサイクル・ジャケットとは、そういうものではありません。本物には本物だけが持つ圧倒的な“存在感”があるものです」

 

 

 

左:セックス・ピストルズのベーシスト、シド・ヴィシャス。右:トライアンフにまたがる俳優ジェームス・ディーン(1955年)。