VIVIENNE WESTWOOD: REBEL WITH A CAUSE

ヴィヴィアン・ウエストウッドの“理由ある反抗”

September 2021

パンクファッションの火付け役であり、カウンターカルチャーの旗手であり、国際的な評価を得ているデザイナー、ヴィヴィアン・ウエストウッド。

彼女は幾度となくファッションのルールブックを塗り替え、現在も反体制的な価値観や精神を忠実に守り続けている。

 

 

by JESSICA BERESFORD

 

 

 

キングスロード430番地にある自身のショップ“セディショナリーズ”で撮影されたヴィヴィアン・ウエストウッド(1970年代頃)。Photo by Robin Laurance

 

 

 

 人々の多くは時の流れとともに考え方が変化したり徐々に力強さを失っていく。そんな中、一生をかけて同じメッセージを伝え続ける人には、きっと何かがあるはずだ。ひとつの信念を、情熱を持って貫くことは、とても難しいものである。

 

 ヴィヴィアン・ウエストウッドは、時代が変わっても常に変わらないメッセージを発信することによりアイコンとしての地位を確立し、人々に計り知れない大きな影響を与えてきた。そのメッセージとは、1965年に24歳のウエストウッドが18歳のマルコム・マクラーレンと出会ったときに生まれた、“反逆”のメッセージだ。

 

 

 

 

 ふたりとも、自己表現の手段としてファッションを用いることに興味を持っていたが、1960年代になってもなおロンドンに蔓延っていたヒッピー的な美意識は嫌っていた。ウエストウッドは、回顧録『Get a Life』にこう記している。

 

「インスピレーションの源として50年代を選んだのは、若者が反抗していた時代と思えたからです。ヒッピー文化は私の世代を政治的に導きました。私は西欧諸国によってもたらされた拷問と死の世界を憎んでいました」

 

 彼らは50年代のテディ・ボーイファッションをスタイルとした。そして1971年、ふたりはキングスロード430番地に“Let it Rock”という最初の店をオープンさせた。ドレインパイプ・トラウザーズ(細身のトラウザーズ)や、クリーパーズ(厚底プラットフォーム・シューズ)など、当時の雰囲気を再現した商品を扱っていた。

 

 しかし、テイストはすぐに変わっていった。1972年には“Too Fast to Live, Too Young to Die”と改称し、レザーを使ったバイカー風の服を販売し始めた。1974年には“SEX”というブランド名に変更し、フェティシズムに焦点を当てた。1976年には“Seditionaries(セディショナリーズ)”と改名し、それまでの表現をすべて融合させた服を販売し始めた。それはウェアラブルでありながら、ひとつひとつ手作りされたような作品だった。スローガンがペイントされた引き裂かれた白いTシャツ、ボンデージ・ストラップのついたタータンチェックのトラウザーズ、大きな穴の開いたニットなどである。

 

 

 

 

 そしてやがてこの店と密接な関係を持つ、パンクシーンを象徴するバンド、セックス・ピストルズが結成される。ベーシストのグレン・マトロックはここで働いており、メンバーのスティーブ・ジョーンズやポール・クックも集まり、このお店が溜まり場になっていた。75年にはマクラーレン自身がバンドのマネージャーになった。

 

 “I hate Pink Floyd”のスローガンTシャツを着てキングスロードを闊歩していたジョン・ライドン(別名ジョニー・ロットン)は、店内でリードシンガーのオーディションを受けた。

 

 サウンドはセックス・ピストルズが、ファッションはウエストウッドがクリエイトしたこの芸術的表現は、メディアによって“パンクロック”と呼ばれ、一大ムーブメントを巻き起こした。

 

 ウエストウッドは、かつて『ニューヨーク・タイムズ』紙にこう語っている。

 

「ファッションデザイナーになったとき、私はマルコムの活動を手伝っていました。それがやがてパンクに変わっていきました。彼を助け、エスタブリッシュメントを攻撃することに興味があったのです」

 

 

 

 

 しかし、セックス・ピストルズが大成功したことで、パンクロックのスタイルはメインストリームとなり、商業化されてしまった。これに巻き込まれることをウエストウッドは嫌った。マクラーレンとの関係も悪化し、後に彼女は『テレグラフ』紙にこう語っている。

 

「マルコムは私に辛く当たりました。とても嫉妬していたのです。『ただのお針子だ』とか、『俺に会わなかったらデザイナーになっていない』など、私の自信を失わせようとしたり、気分を害するようなことを言うのです。いつもですよ……」

 

 80年代初頭、ウエストウッドはマクラーレンと袂を分かつ。ふたりで成し遂げてきたクリエイティブな成果はともかく、その後ウエストウッドは単独でも実力を発揮できることを証明した。

 

 マクラーレンと一緒にいた頃から、彼女はフルコレクションの制作とランウェイショーの開催を始めていた。1989年には、ジョン・フェアチャイルドの著書『Chic Savages』で、ジョルジオ・アルマーニ、カール・ラガーフェルド、サンローラン、ラクロワ、ウンガロと並んで、世界のトップ6デザイナーのひとりに選ばれ、高い評価を受けた。

 

 やがて彼女は当初のパンク・テイストから脱却し、80年代から90年代にかけてはハリスツイードを使った作品や、18世紀のコルセットを使った作品、王室にインスパイアされたデザインなどを用い、上流階級をパロディ化するようになった。

 

 

 

 

 ウエストウッドは、アンチ・エスタブリッシュメントな考えをファッションで表現するだけでなく、政府に対しても積極的に抗議活動をした。例えば、1989年の『Tatler』誌の表紙ではサッチャー首相に扮し、“This woman was once a punk(この女性もかつてパンクだった)”というコピーを添えた。

 

「私が着たスーツは、マーガレット・サッチャーがアクアスキュータムに注文したものでしたが、彼女はそれをキャンセルしたのです」とウエストウッドは『Get a Life』に書いている。

 

「この表紙は、ロンドン・ファッション・ウィーク中、屋外広告に掲載されましたが、私でさえも、それが私だと信じるために二度見しなければなりませんでした」

 

 

 

 

 しかし、ウエストウッドの最も情熱的な“反逆”活動は、おそらくその後、彼女が人生をかけて取り組んた気候変動に対するものだろう。かつて彼女がパンクムーブメントのために制作していたスローガンTシャツには、今では“Save the Arctic”や“Climate Revolution”と書かれている。また、消費者に量ではなく質を買うことを奨励するため、自分のブランドの生産量を減らすことを選択した。彼女は2014年の『Observer』誌にこう語っている。

 

「ファッション業界が推奨する“浪費”について、罪悪感を感じているかですって? 私は今、自分のビジネスをより効率的でサステナブルなものにしようとしています。それが答えなのです」

 

 1971年にオープンしたウエストウッドとマクラーレンのショップは、デザイナーの最初のファッションショーにちなんで“Worlds End(ワールズエンド)”と改名され、現在もキングスロード430番地で営業している。それは今では、気候変動の影響をも反映したような名前に思える。

 

 この空間は、いつも政治的・文化的なアイデアを生み出してきた。今日では、再委託されたアーカイブ・デザインを販売したり、スローガンTシャツやその他の歴史的な作品を飾ったりしている。その存在は、ただ形だけの活動や、単にファッショナブルなだけのアクティヴィティを超えた象徴でもある。ウエストウッドは、反逆の精神がいかに社会に衝撃を与え、真の変革をもたらすかを示す、素晴らしい先導者なのである。