The Man Who Dressed the Stars: Eddie Schmidt

スターを仕立てた男:エディ・シュミット

January 2023

text ANDI BROOKS

 

 

 


エディ・シュミットが仕立てた衣装を着る俳優クラーク・ゲーブル(『風と共に去りぬ』より)。

 

 

 

 1937年5月23日、「ハリウッドの仕立て屋」エディ・シュミットがロサンゼルスで交通事故により63歳で亡くなったとき、彼はアメリカで最も革新的なテーラーの一人として名声を博していた。ハリウッドの黄金時代には、多くの映画スターに愛され、彼の会社であるエディ・シュミット社を世界で最も偉大なテーラーと賞賛するファンもいたほどだ。皮肉なことに、シュミット自身は一度も服を縫ったことがない。しかし、彼は、ヨーロッパで最も優れた裁断師を雇い、20世紀初頭のメンズとレディスのファッションに革命をもたらした優れたスタイリストであった。

 

 1874年生まれのシュミットの成功は、ハリウッドの映画産業の発展とともにあった。20歳の時、ロサンゼルスの衣料品店のオーナーが家賃を払えなくなり、それを引き継いでキャリアをスタートさせた。同じ頃、アメリカ東海岸のニュージャージー州では、発明王エジソンがアメリカ初の映画スタジオを建設していた。その後、他の映画製作会社も次々と参入し、ニュージャージーはアメリカの映画の中心地となった。1900年代前半には、エジソンは映画製作と上映に関する特許をほぼすべて取得し、業界を完全に牛耳っていた。

 

 1911年のネスター・スタジオを皮切りに、映画製作者たちは、年間を通じて太陽の光が降り注ぐハリウッドの小さな町に移り住むようになった。重要なのは、エジソンの手が届かないカリフォルニアへ逃れることであった。

 

ハリウッドがニュージャージーに代わってアメリカ映画製作の中心地となる1915年までには、エディ・シュミットはすでにダブルブレステッドのスーツやディナースーツ、2つボタンとダブルベンツのシングルブレステッド・ジャケットといった独特のスタイルを確立していた。

 

 同年、ロサンゼルスで最も高級なショッピング街である7thストリートに、より広い店舗を構えた。エディ・シュミットは映画スタジオを巧みに優遇し、瞬く間に彼らの御用達テーラーとなり、他のどのテーラーよりも多くのスターに服を提供した。

 

 この会社の服を愛用していた初期の俳優たちには、ダグラス・フェアバンクス・シニア、ウィリアム・パウエル、アドルフ・マンジューなどがいた。マンジューはアメリカで最もスタイリッシュだといわれた男だ。1948年の回顧録『It Took Nine Tailors』で、マンジューはシュミットとの関係をこう振り返っている。

 

「私はロンドンやヨーロッパのテーラーに何十着もスーツを作ってもらったが、エディ・シュミットは彼らと同じくらい創造的なテーラーであることが分かった。私の衣服に関する試みのほとんどは、シュミット・シニアの助けを借りて行われた。最初に試したことのひとつは、ジャケットの裏地から芯地を取り除いて、胸と肩甲骨の上に少し膨らみを持たせてドレープを作ることだった。このスタイルが普及するまでには長い時間がかかったが、今ではドレープのかかったジャケット以外を見ることはほとんどない。また、ジャケットの袖を細くし、袖のクリースをなくした。さらに、ダブルブレステッド・スーツのトップボタンの間隔を広げて、肩のラインを広く見せるなどの工夫もした。私たちは多くの改革を試み、それは紳士服のスタンダードとなったのだ」

 

 

 


映画『モロッコ』(1930年)でエディ・シュミットのフォーマルを着た俳優アドルフ・メンジュー。

 

 

 

 1920年代後半、シュミットはMGMを皮切りに、フォックス、パラマウントなどの主要映画スタジオに事務所を構えた。これにより、プロデューサーや監督は、俳優をシュミットのところに送って、映画の役のための服作りを簡単にすることができるようになった。また、スタジオは俳優の私生活のための服のデザインもシュミットに依頼した。

 

 1930年までには、エディ・シュミットはロサンゼルスのダウンタウンに4階建ての自社ビルを建てられるほど成功した。1階と2階は賃貸に回し、3階はマレーネ・ディートリヒやキャサリン・ヘップバーンの有名なパンツスーツを作った婦人服部門に、4階とペントハウスは紳士服部門にあてられた。

 

 1930年代、ハリウッド俳優のためのテーラーには3種類あった。第一は、俳優のオフのための服をサポートするリアル・ワールド・テーラー。2つ目は、映画スタジオ専門テーラーで、スクリーン上の衣裳を仕立てるスタジオ・テーラー。3つ目は、エディ・シュミットのような、スタジオに服を提供しながらも自分のビジネスも持つ、ツー・イン・ワンのテーラーだ。ハリウッドの超一流俳優たちは、スクリーンで着る服のほとんどを、このツー・イン・ワンのテーラーでオーダーメイドしていた。

 

「キング・オブ・ハリウッド」と呼ばれたクラーク・ゲーブルは、当時、世界で最も偉大な映画スターであった。彼とエディ・シュミットは、とりわけ親密な関係にあった。シュミットはゲーブルのスタイル・メンターであり、オンとオフの両方で彼に服を提供していた。1930年頃から1945年頃まで、ゲーブルがスクリーンで着るジャケット、スーツ、コート、ユニフォーム、トラウザーズはすべて、エディ・シュミット社が彼のために特注したものだった。

 

 

 

『風と共に去りぬ』(1939年)でエディ・シュミットのライディング・ジャケットを着たクラーク・ゲーブル。

 

 

 

 シュミットがゲーブルのために作った服で最も有名なのは、おそらく『風と共に去りぬ』(1939年)で彼が着たものだろうが、最初に選ばれたのはシュミットではなかった。この映画の監督だったジョージ・キューカーは、ビバリーヒルズのハバダッシャリー、アレクサンダー・オビアッツに自分の服を作らせていた。ジョージ・キューカーは、この映画の監督になると、オヴィアッツに衣装製作を依頼した。

 

 クラーク・ゲーブルはこの決断に納得がいかなかった。彼は、衣装とキューカーを等しく嫌っていた。その結果、彼は退屈な演技を披露し、ついには撮影現場から立ち去ってしまった。

 

 プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックは、キューカーの代わりに『オズの魔法使い』(1939年)の監督をしたばかりのヴィクター・フレミングを起用し、1937 年の父の死後、会社を率いていたエディ・シュミット・ジュニアと裁断師のジョン・ガルッポと会い、ゲーブルのために新しい衣装を作ることを手配した。

 

 撮影中の破損に備え、各アイテムが2セットずつ作られた。

 

 新しい衣装とゲーブルの出演シーンをすべて撮影し直すにはかなりの費用がかかったが、その投資は報われた。『風と共に去りぬ』は、公開後、観客動員記録を更新し、アカデミー賞8部門を受賞する大ヒットを記録したのだ。

 

 シュミットを着たハリウッドのスターたちは、まさに錚々たる顔ぶれである。ほんの一例だけでも、チャーリー・チャップリン、グロリア・スワンソン、ジョン・ウェイン、キャロル・ロンバード、ローレンス・オリビエ、オーソン・ウェルズ、ジェームズ・スチュワート、フレッド・アステア、ゲイリー・クーパー、ハンフリー・ボガードなどの名前が並ぶ。

 

 中でも最も変わった顧客は、腹話術人形のチャーリー・マッカーシーであった。この人形は26ドルしかしなかったが、トレードマークのタキシードは1着200ドルもした。

 

 シュミットはまた、監督、プロデューサー、撮影所の責任者、映画界以外の著名人、そして英国王族の服までも作っていた。1920年代半ば、エディ・シュミットと裁断師たちはダグラス・フェアバンクス・シニアの邸宅を訪れ、彼の客であったウィンザー公(後のエドワード8世)にエディ・シュミット流のジャケットとディナースーツを仕立てた(ワンボタンのダブルブレステッド、ラペルはワイド)。

 

 英国に帰国した後のディナーパーティーで、公爵はそのスーツを仕立てたサヴィル・ロウのテーラーを尋ねられた。エディ・シュミットのスーツだと答えると、サヴィル・ロウのテーラーはこのスタイルを真似するようになり、富裕層や権力者の間で流行したと言われている。

 

 1937年のエディ・シュミットの死後、同社のテーラリングの質は低下し始めたとする見方もある。第二次世界大戦後、新興の若手テーラーとの競争にさらされ、そのスター性は確かに衰え始めた。やがてビバリーヒルズに移転したエディ・シュミット社は、裁断師のジョン・ガルッポとパートナーシップを組み、シュミット&ガルッポ社と改名し、ついに廃業に追い込まれるまで映画スターに洋服を提供し続けた。

 

 それから長い月日が経ったが、エディ・シュミットのスタイリッシュで革新的なテーラリングは、数え切れないほどの映画に登場し不滅の存在となっている。ハリウッドの黄金時代とそのスターたちのスタイルは、今でも最高峰であることに変わりはなく、これからも賞賛され、模範とされ続けていくことだろう。