THE HISTORY OF ZENITH

名門マニュファクチュール、ゼニスの軌跡

August 2022

自動巻きクロノグラフの第一人者であり、イノベーターとして知られるゼニス。

このスイス屈指のマニュファクチュールの非凡な歴史を紐解こう。

 

 

text freddie anderson

 

 

スイスのル・ロックルにあるゼニスのマニュファクチュール。そのファサードには、創業者ジョルジュ・ファーブル=ジャコのイニシャル「G.F.J.」が刻まれている。

 

 

 

 中部ヨーロッパの血筋に生まれ、何かの道の先駆者、あるいは天才になろうと幼い頃から大志を抱いている人なら誰でも、自分にも大きなチャンスが巡ってくるのではと考えるかもしれない。なぜならオーストリアの神童ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトは5歳にして作曲を始めているし、ハンガリーのユディット・ポルガーは15歳でチェスのグランドマスターに輝いているから。

 

 1843年生まれのスイスの時計師、ジョルジュ・ファーブル=ジャコは、ル・ロックルの町に住んでいた22歳のときに「ジョルジュ・ファーブル=ジャコ工房」を設立(後に「ゼニス」に改名)。現代においては20代での起業は普通と思われているが、ファーブル=ジャコが時計製造を学び始めて起業を考えるようになったのは、なんと9歳の頃である。13歳の頃には独立。既に時計の世界に熱中していた。そして先述の通り22歳のときに、時計製造者として伝統の道筋を大きく変える偉大な存在になるのだ。

 

 

創業当初のマニュファクチュール。

 

 

 

ひとつ屋根の下の時計製造

 

 ジュラ渓谷に位置するル・ロックルは、その何世紀も前から時計製造の揺籃の地であり、冬になると農民たちも労働力となっていた。20世紀以降にはさらに時計製造者が急増し、最終的にはすべての時計部品が地元の小さな工房の職人によって作られるようになった。

 

 ジョルジュ・ファーブル=ジャコは、1865年の会社設立の2年前に、同じく時計製造をしていたルイーズ=フィリピーヌ・ジャコ= デコンブルと結婚したことにより、さらにその名を知られる存在になっていた。彼は、アメリカの時計メーカーが信頼性の高い時計を大量生産・販売していることに着目し、「完璧な時計」を製作することを決意。そして時計製造の全工程をひとつ屋根の下に集結させ、自社で一貫して行うことを決める。つまり、時計製造を完全に垂直統合したスイス初のマニュファクチュールをル・ロックルに誕生させたのである。

 

 ファーブル=ジャコの帝国ともいえる工房は、17,000㎡の広さを持ち、ル・ロックルの駅に直結していて、そこから製造のための材料が直接供給されるようになっていた。この工房が進化を遂げる最中、彼はある有意義な会議において最高のキャリバーの構想を思いついた。そしてそのキャリバーに「天空の頂点」を意味する「ゼニス」と名付け、会社にも同じ名前を付けることを決めたのである。

 

 

統合型マニュファクチュールを設立したジョルジュ・ファーブル=ジャコ(1843 〜1917年)。

 

 

 

 会社設立の10年後には、ファーブル=ジャコはル・ロックルの全労働力の10%を雇用し、地域最大の地主となっていた。そしてその業績と影響力を示すべく、彼はかの有名な建築家、ル・コルビュジエに自身の邸宅の設計を依頼する。ヴィラ・ファーブル=ジャコと名付けられたこの邸宅は、今もなおゼニスの工房のほど近くに建っており、町の名所のひとつとなっている。ファーブル=ジャコは、クロノメトリーの大きな賞をいくつか受賞した後、1911年に引退。彼の甥ジェイムズが後を継ぎ、その2年後に、ゼニスは初のクロノグラフを発表した。

 

 第一次世界大戦後は、スイスの時計メーカーにとって厳しい時代が訪れた。ゼニスもまた、経営を安定させるために、銀行の管理下に入った。ロシア革命後は得意先を失い、航空機のダッシュボード用の時計や電話交換用の機器など、需要のある機械の製造にも対応せざるを得なくなった。とはいえ、全世界で販売された機械式時計の約95%はスイス製であり、一定の繁栄は維持されていた。

 

 

1969年に誕生した最初期型エル・プリメロのひとつ、「A386」。

 

 

 

エル・プリメロの誕生と復活

 

 そして1969年、時計製造の業界において衝撃的な年が訪れる。ゼニスから革新的かつ象徴的なムーブメント「エル・プリメロ」が発表された。機械式時計製造における最難関のひとつだった、一体型の自動巻きクロノグラフの製作を達成したのだ。エル・プリメロは、毎時36,000回という振動数を誇り、1/10秒という短い間隔での計測を可能にした。

 

 これほどのムーブメントを自社のみで開発するにはとてつもない努力が必要だったが、折しもエル・プリメロが発表された頃に、いわゆる「クオーツショック」が起こり、時計産業全体が大打撃を受けただけにとどまらず、スイスの経済活動を失速させた。このため、エル・プリメロも生産中止に追い込まれたのである。

 

 ゼニスは一時的に米国のゼニス・ラジオ・コーポレーションの傘下に入り、機械式時計への忠誠を失う代わりに、クオーツ式の時計の生産のみに注力することを決めた。機械式ムーブメントの製造に関連する金型や工具類は完全に破棄するか売却せよと通達されたのだ。ところがこの頃、シャルル・ベルモという地元出身の古参の時計製造職人が経営陣の命令に逆らい、エル・プリメロの製造に関わる工具や機械、設計図、部品のすべてを工房の屋根裏に隠したのである。

 

 1978年にゼニスはスイスの手に戻った後、再びエル・プリメロの生産に向けて動き出す。ベルモはついに秘密を明かし、ゼニスの経営陣を屋根裏へと案内したのだ。そこには、すべての工具と部品、製造工程の詳細な記録まで残っていた。こうして伝説のムーブメントは復活を果たす。そしてゼニスは、デイトナ用の自動巻きクロノグラフムーブメントを探していたロレックスから供給を依頼される。ベルモのおかげで、ロレックスとの契約が実現したのである。この契約は、時計製造の歴史上、最も大きな利益を生んだひとつといわれている。

 

 

世界初の一体型自動巻きクロノグラフ、エル・プリメロ。

 

「エル・プリメロ」が発表された当時からゼニスで働いていた時計職人、シャルル・ベルモ。

 

 

 

偉人たちからの支持

 

 ファーブル=ジャコとベルモは、ゼニスの系譜に連なる名高い英雄といえるが、このブランドの時計にはメーカーの人物以外にも数々の偉人たちのストーリーがついてまわる。例えば、1909年に英仏海峡の横断に初めて成功したフランス航空界の先駆者ルイ・ブレリオは、ゼニスのタイムピースを愛用し、その高い精度に絶大な信頼を寄せていた。

 

 また、マハトマ・ガンジーは友人でインド首相だったジャワハルラール・ネルーから贈られたシルバーの懐中時計を愛用していた。この懐中時計は、アラーム機能がついていたため、彼に祈りの時間を教える役割を果たした。ガンジーがカーンプルへ列車で移動していた際に盗難に遭ってしまったが、幸いにも泥棒は罪悪感と後悔に苛まれ、半年後にこれを返しにきて許しを乞うたという。

 

 さらに最近ではオーストリア人スカイダイバー、フェリックス・バウムガートナーがゼニスの時計を身に着けて、ヘリウムガスのバルーンで打ち上げた宇宙カプセルから高度39,000mの成層圏からのダイビングを行った。この試みによって、時速1,342kmという音速の壁を突破する初めての時計となったのだ。

 

 今日、ゼニスは徹底的に近代化したマニュファクチュールとなっている。最先端の調査研究に多大な投資をすることで知られており、まだまだイノベーションの追求が止むことはない。

 

 

 

1909年に英仏海峡横断飛行に成功した飛行士ルイ・ブレリオは、ゼニスの時計を愛用した。

 

2012年、高度39,000mの成層圏からの音速越えダイビングという前代未聞のミッションを成功させたバウムガードナー。