THE DEFIANT ONE
黒人初のアカデミー俳優、シドニー・ポワチエ
October 2023
シドニー・ポワチエは、黒人俳優のパイオニア的存在で、黒人として初めてアカデミー賞主演男優賞を受賞した。彼の映画は今となっては少し古臭く感じるかもしれない。しかし、男性が内省的になりがちなこの時代にあって、彼の単純明快なヒロイズムは人々に安心感を与えてくれる。
by ed cripps
シドニー・ポワチエ『いのちの紐』(1965年)より。
2017年に公開された映画『ゲット・アウト』は、ホラー映画の傑作だった。この手の映画にしては珍しく、評論家に絶賛され、アカデミー賞作品賞にノミネートされた。興行的にも成功し、主演のダニエル・カルーヤをスターダムに押し上げた。完璧なテンポ、白人エリートの偽善、黒人に対する侮蔑、隠蔽された偏見……。単なるホラーを超えたドラマ的要素が、観る者を唸らせたのだ。
このプロットは、50年前以上に公開され、同じようにその時代を象徴した映画『招かれざる客』(1967年)の現代版とも読める。この映画には、キャサリン・ヘプバーンとスペンサー・トレイシーといった白人のキャストに混ざり、礼儀正しさと知性に溢れた黒人の代表としてシドニー・ポワチエが出演している。
ポワチエは、1927年2月、体重わずか1.3kgの未熟児として生まれた。8人兄弟の末っ子で、バハマとマイアミで育った。両親は農夫でトマトを栽培していた。13歳の時、彼は自転車に乗っている男に突然殴られた。彼はいつかこの仕返しをしてやると心に誓った。
16歳でニューヨークに移り、皿洗いの仕事を始めた。年齢を偽って陸軍に入隊したが、すぐに精神異常を装って除隊となった。独学で読み書きを覚えた彼は、アメリカン・ニグロ・シアターのオーディションに合格した。バハマ訛りがひどかった彼は、それを直そうと努力した。そしてニュースキャスターを参考にし、ゆっくりとした歯切れのよい話し方を習得した。
彼が演劇界でいくつかの役を好演したことにより、映画監督ジョーゼフ・L・マンキーウィッツの目に止まった。マンキーウィッツは映画『復讐鬼』(1950年)で、ポワチエに初めて注目される役を与えた。人種差別主義の暴漢を治療する寛容な医師である。「泣くな白人坊や、生きていくんだ」というラストシーンのセリフが有名だ。
『暴力教室』(1955年)は、ポワチエの初期の最高傑作である。彼は不良少年を演じ、暴力的な生徒と戦うリベラルな教師をかばっている。この後、彼自身は教師を演じることが多くなった。
ポワチエはまた、白人と黒人の友情を演じて観る者の心を温かくした。『暴力波止場』(1957年)では、ジョン・カサヴェテス演じる白人の流れ者と親しくなる黒人人夫を演じた。スタンリー・クレイマー監督の『手錠のまゝの脱獄』(1958年)では、トニー・カーティス演じる人種差別主義者の命を救う黒人囚人を演じた。手錠で互いに繋がれた黒人と白人の囚人が、最初は激しく対立するも、次第に絆を深めていくというストーリーだ。この役で彼は英国アカデミー賞とベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した。
ヌーヴェルヴァーグの香り漂う『パリの旅愁』(1961年)は、彼が出演した中で最もスタイリッシュな映画である。劇中のすべての音楽はデューク・エリントンが書き下ろしたものだ。ポワチエはジャズ・ミュージシャンを演じており、ポール・ニューマンやルイ・アームストロングとの共演を果たしている。
ポワチエは駆け出しの頃、「黒人俳優の役柄は、いつもネガティブで、愚かな召使いや社会になじめないような人間ばかりです」と嘆いていた。
「20年前にこの世界に入った頃は、すべての役がこの調子でした。しかし私は、黒人としてお決まりの役は受けないことにしていました。私には4人の子供がいます。彼らはいつも映画を観に行きますが、そこに自分たちの本当の姿が描かれていることはありません」
ロレイン・ハンズベリー作の『レーズン・イン・ザ・サン』(1961年)では、手にした保険金で白人居住区の邸宅を買おうとする黒人運転手ウォルター役を演じた。ポワチエはここで黒人としての心の葛藤を表現している。
一方で、『ポギーとベス』(1959年)には本当は出演したくなかった。彼が嫌いなステレオタイプな黒人だったからだ。しかし、それを断ると『手錠のまゝの脱獄』への出演が危ぶまれた。スタジオをなだめるために、彼はしぶしぶこの役を引き受けたのだ。その後のキャリアを考えれば、この妥協は正解だったかもしれない。
1963年の『野のユリ』では、流れ者ホーマーを演じ、5人の修道女のために荒れ地に礼拝堂を建てる。非常に高く評価されたこの映画でポワチエは、レックス・ハリソン、リチャード・ハリス、アルバート・フィニー、ポール・ニューマンを抑えて、黒人初のアカデミー主演男優賞を受賞した。女優アン・バンクロフトから賞を受け取ったポワチエは、「数え切れないほどの人々」への恩義を熱く語った。
1967年はアメリカ映画全般、とりわけポワチエにとって記念すべき年だった。この年の最高興行収入を記録した3本の映画(『いつも心に太陽を』、『招かれざる客』、『夜の大捜査線』)に出演したのだ。それぞれの趣きは、かなり異なっていた。
まず『いつも心に太陽を』は、白人の生徒たちの高校に赴任してきた黒人の教師の物語である。とても英国的で60年代的な、教師もののはしりのような映画だ。お別れのシーンでルルが歌ったタイトル曲は、ビルボード全米チャートで5週連続ナンバーワンを記録した。
『招かれざる客』は、味わい深い作品だった。スペンサー・トレイシーが扮する頑固な父親は、愛についての有名な独白をする。これは妻を演じたキャサリン・ヘプバーンの涙を誘った。なぜなら彼らは実生活でもパートナーであり、その時彼女は彼が心臓を悪くし、死が間近だと知っていたからだ。
『夜の大捜査線』では、ポワチエは敏腕刑事ヴァージル・ティッブスを演じている。ミシシッピの旅の途中で殺人事件に遭遇した彼は、事件の捜査を命じられる。ロッド・スタイガー演じる人種差別主義の警察署長や、町の人々とのぎすぎすした関係のなかで、犯人を突き止めてゆく。クインシー・ジョーンズが音楽を手がけ、後に映画監督になるハル・アシュビーが編集を担当したこの映画は、当時の社会のリアリティと公民権運動をうまく結びつけている。
後者の2作品は、白人リベラルの自己満足的なストーリーから、一部では否定され続けてきた。しかしそれでもこの2作は、メジャー映画が人種差別問題を正面から扱ったという点で非常に画期的だった。何しろ1967年といえば、連邦最高裁判所が異人種間結婚の禁止を違憲と判断したばかりだったのだ。
教師、医者、警察官など正義の役ばかりを演じたポワチエは、白人に媚びへつらう“アンクル・トム”だと非難された。現代の映画評論家のドナルド・ボーグルはこう述べる。「彼の演じる人物はきちんとした英語を話し、保守的な服装をし、ファンキーではなく、セックスレスで無菌状態だった。ランチやディナーに有色人種を招きたがる白人リベラル派にとっては、完璧な存在だった」。
しかし、ポワチエはこう語っていた。
「映画にレギュラー出演をしている黒人俳優は私だけです。私たちが6人になれば、ひとりは常に悪役を演じることができるでしょう」
ポワチエは批判に傷ついていた。
「潮目が変わったので、ボートとたくさんの本を買ってカリブ海に行き、1年ほど休暇を取りました」
彼は映画界に戻ると、ハリー・ベラフォンテと共演した『ブラック・ライダー』(1972年)で、初めて監督業に挑戦した。以降、ポワチエが監督した映画は、それまでの記録を塗り替えていく。例えば、ジーン・ワイルダーとリチャード・プライヤーが出演したコメディ『スター・クレイジー』(1980年)は、興行収入1億ドルを超えた初の黒人監督作品である。
その後もポワチエは、多くの映画で重要な役をこなした。70歳にしてブルース・ウィリスと共演した『ジャッカル』(1997年)では、マイケル・ケイン演じる元南アフリカ大統領デ・クラークに対して、ネルソン・マンデラを熱演した。
スクリーンの外では、2度結婚しており、4人の子供と8人の孫がいた。1974年には英国王室よりナイトの称号を授与されている。また駐日バハマ大使として外交手腕を発揮した(特命大使だったため、駐日経験はない)。
2002年には、ポワチエの映画に対する長年の貢献を讃えて、アカデミー名誉賞が送られている。プレゼンターはその年の主演男優賞を受賞したデンゼル・ワシントンだった。スピーチの中でワシントンは、「シドニー・ポワチエの映画から、シドニー・ポワチエをカットすることはできない」といい、彼が黒人であるにもかかわらず主役を張り、黒人の地位を向上させたことを賞賛した。ポワチエは、監督たちと賞を分かち合った。
ポワチエには威厳があるが、どこまでも平和的だ。マルコムXというよりはマーティン・ルーサー・キング牧師に似ている。彼の映画は今となっては少々古臭く感じるかもしれない。しかし、男性が内省的になりがちなこの時代にあって、彼の単純明快なヒロイズムは、人々に安心感を与えてくれる。
ポワチエは、2022年1月に亡くなった。それ以来、神話のような存在になっている。モーガン・フリーマンからバラク・オバマまで、彼の忍耐力、良識、重厚さ、明晰さは多くの人々に道を示してきたのだ。