INVITATION TO VOYAGE
パテック フィリップ ワールドタイムの栄光の歴史
April 2024
旅への気運が高まってきた今こそ、エレガントなこの機構を堪能したい。パテック フィリップのワールドタイムは、新たな世界の希望の聖杯である。
(THE RAKE日本版Issue47掲載記事)
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筆者が所有するパテック フィリップのワールドタイム、Ref.5131。ダイヤルの中央には、クロワゾネ本七宝による世界地図が描かれている。インデックスはなく、小さな四つのゴールドの装飾小片(パイヨン)がポイントに配されており、紳士的なエレガンスを持って時を告げる。パテック フィリップのサインは12時位置のベゼル上部に施されているのが見える。
パテック フィリップのワールドタイムの歴史を網羅する壮大な記事を執筆しようと決めたのは、皮肉にも私の国シンガポールが2度目のロックダウンとなり、ヨーロッパ滞在の計画を中止せざるをえなくなったときだった。世界の中の大好きな都市を再発見したい、懐かしい人々との絆を取り戻したい、そんな思いが増しているのは、私だけではないはずだ。
実は私はCOVID-19が発生した頃、Ref.5131を手に入れた。クロワゾネ七宝による地図の中に身を置くと、これまで世界と相互につながってきたことを思い返し、そしてこれからいかにつながっていくのかを考えられる気がした。都市表示リングに目を向けると、かつて訪れた各都市での記憶が、洪水のように蘇ってくる。そして再びこれらの都市を訪れたいという思いが湧いてくる。私が手に入れた5131は、小さなゴールドの装飾小片(パイヨン)以外、インデックスがないため、控えめで紳士的なエレガンスを持って世界の時刻を示してくれる。
パテック フィリップのワールドタイムの精神は、今も昔も変わらない。24のタイムゾーンで結ばれた世界は、言語、人種、宗教を超え、地球というひとつの惑星にともに生きていることを思い出させてくれる。このロマンチックな機構は、85年の歴史にわたって高い芸術性を発揮してきた。世界で最も尊敬されているウォッチメゾンと、20世紀を代表する時計職人ルイ・コティエとのコラボレーションを象徴しているのだ。
24のゾーンに分かれた世界
1858年に『Miranda』という本の中で、ローマを本初子午線とする24の区域を最初に提案したのは、イタリアの数学者キリコ・フィロパンティだった。しかし提案は受け入れられず、彼は無名のままだった。なぜか? 標準時というものが存在しなかったからだ。世界中の国や町が、自分たちのローカルタイムを決めていた。それぞれが不正確かつ世界で統一されていなかったため、広大な土地が鉄道で結ばれるようになると、大混乱を引き起こすことになった。
1879年、カナダの鉄道技師で発明家のサンドフォード・フレミングは、アイルランドで列車に乗り遅れたことをきっかけに、24時間表記の「世界標準時」を全世界で使用することを提唱する。彼は主要な国際会議において、すべての国がこれを使用するよう訴え続け、1900年代初頭には、標準時はイギリスのグリニッジ天文台を通る本初子午線を基準に採用されるようになった。そして世界は24のタイムゾーンに分けられ、経度15度ごとに1時間の時差がつくられたのだ。
ルイ・コティエの歴史的発明
1931年、時計職人ルイ・コティエは46歳のとき、伝説的なワールドタイム機構を開発した。特許を取得したその機構は、針と12時間マーカーが付いたインナーダイヤル、24時間表示リング、さらに外周に都市名が書かれたリングという構成で、誰もが直感的に理解できるものだった。24時間リングは、中央の時分針の動きと連動しており、時針が時計回りに回転するのに対し、24時間リングは反時計回りに回転する。そして24時間リングは、それぞれのタイムゾーンを代表する都市に対応している。新しい都市に到着したら、現地時間にセットするだけ。そうすれば、自分のいる都市だけでなく、24のタイムゾーンすべての現在時刻を読み取ることができるのだ。
パテック フィリップの歴史を遡ってみよう。メゾンは1932年に文字盤製造業者だったスターン家によって買収され、シャルル・スターンとジャン・スターン兄弟が経営を始めた。以降、今日に至るまでスターン一族が経営を続けている。
兄弟が経営を始めてわずか9年、第二次世界大戦の最中、彼らは世界初の永久カレンダー搭載クロノグラフRef.1518と、世界初の永久カレンダーRef.1526という時計史上重要なふたつの時計を発表している。また1935年には、シャルルの息子であるアンリ・スターンが、同社をアメリカに持ち込んだ。アンリは、父と叔父の指導の下、遠方へのビジネスにも果敢に挑戦する行動派だった。彼は当時の紳士、とりわけアメリカ人が身に着けたい腕時計についてよく考えていた。その答えこそ、「旅する男、優雅に地球を一周する男のための時計」だった。
ちょうどこの頃、ルイ・コティエはジュネーブの名だたる時計メーカーに自分の発明を持ちかけていた。そしてコティエとスターン家は運命に導かれるように、ワールドタイムという伝説的な機構を搭載した時計を生み出すことになる。
ワールドタイム機構「Heure Universelle」(フランス語で「World Time」の意)を開発した時計職人ルイ・コティエ。
ルイ・コティエが手がけたワールドタイムのオリジナルデザイン。
1937:Ref.605 HU
1937年に生産が開始されたワールドタイムRef.605 HUは、懐中時計であったことから、ワールドタイムの腕時計に先行するものと思われがちだが、実は同じ年にRef.96 HU、Ref.515 HU、Ref.542 HUが作られている。つまり懐中時計と腕時計は同時生産されていたのだ。なぜか? それはやはり、大きいほうが七宝焼などの文字盤の芸術性を楽しめるし、ワールドタイム機構が見やすかったからだろう。最終的には約90個生産されたが、これはRef.1415とほぼ同数、Ref.2523と比較すると約2倍の数である。
605 HUは、まさにルイ・コティエによる栄光のオブジェといえる。センターダイヤルに時分針を配し、その周囲に24時間表示リング、さらに外周に世界の都市名を記したディスクを配している。初期バージョンでは、24時間リングに正午と深夜0時を表す太陽と月のアイコンが施されている。センターセコンド表示のレアバージョンも存在するが、基本は時・分表示のみとなっている。
605 HUを含む初期のワールドタイムは、パテック フィリップとコティエの共同作業が成功したことを示すものだった。時計は組み立てられていない状態でコティエの元に届き、彼が自分のワールドタイムモジュールを慎重に装着して作られていた。初期のワールドタイムに見られる特徴的な円形の時針は人気で、2006年のRef.5130で復活している。
605 HUは現代のオークションで常に驚異的な価格で取引されている。例えば、2015年11月に七宝焼で神話のドラゴンを描いた605 HUが96万5,000スイスフランで、2020年6月には七宝焼でアフリカ、ヨーロッパ、アジアの地図が描かれた珍しい605 HUが116万スイスフランで落札されている。しばしば採用された七宝焼による文字盤は、ワールドタイム・ウォッチの伝統として今日まで続いており、高く評価されている。その卓越した職人技術は見事なものだ。大陸の輪郭は極細の金線で作られ、その中にさまざまな色の釉薬を何層にも重ねて焼成してゆく。非常に難度の高い技術であり、完璧に完成した文字盤は、何世紀にもわたって鮮やかな色彩を放つのだ。
アフリカ、ヨーロッパ、アジアの地図が七宝焼によって描かれた珍しいRef.605 HU。2020年6月に開催されたオークションで116万スイスフランで落札された。
この七宝焼文字盤には神話のドラゴンが描かれている。
Ref.605 HUは、パテック フィリップとルイ・コティエのコラボレーションが成功したことを示すものであった。
パテック フィリップの懐中時計のムーブメントの上にコティエの機構を組み込んだ、キャリバー17-170 HU。Ref.605 HUは、約90個生産された。
1937:Ref.96 HU、515 HU、542 HU
パテック フィリップは1937年に、3つの実験的なリファレンスを作っている。中でも興味深いのは、カラトラバのワールドタイム版、Ref.96 HUである。ルイ・コティエの素晴らしいコンプリケーションをカラトラバの美しいケースに組み込んでおり、イエローゴールド製のふたつのプロトタイプが作られた。ひとつはパテック フィリップ・ミュージアムに所蔵されており、もうひとつは時計業界のカリスマ経営者ジャン・クロード・ビバーが所有していたが、2020年にフィリップスのオークションに出品され38万7,500スイスフランで落札された。
96 HUには文字盤にパテック フィリップのサインはなかったが、その見事なフォルムからはパテック フィリップが技術的な道具としてではなく、崇高な美のオブジェとして作ろうとしたことがわかる。
Ref.515 HUは、エレガントなローズゴールド製のレクタンギュラーケースが特徴だ。このモデルは1994年4月にアンティコルムから出品され、55万スイスフランで落札された。私が知る限り、市場には1本しか出回っていない。興味深いことに、ロンドンとパリが同じタイムゾーンとなっている。第二次世界大戦前、1937年当時は同じタイムゾーンを共有していたのだ。ドイツ占領下の1940年、パリは中央ヨーロッパ時間に切り替えるよう命じられたが、連合国が戦争に勝てばグリニッジ標準時に戻すというのが通説だったため、パテック フィリップは善が悪に勝利するという信念のもと、ふたつの都市を同じ時間帯としていた。しかし皮肉なことに、戦後パリは中央ヨーロッパ時間を継続させたのだ。
Ref.542 HUは、パテック フィリップ初の連続生産されたワールドタイム腕時計となるRef.1415の青写真を作ったという意味で非常に重要である。27mmのケース、そして長く美しいラグは、見る者を圧倒する。また、二等分された円形の時針や、24時間表示リングで初めて昼と夜を区分けしたバリエーションもあるという点で特別である。サザビーズによると、このモデルは5本作られたという。
左から:文字盤を囲むリングに28都市の名前が記されたRef.96 HUは、パテック フィリップが手がけた初のワールドタイム腕時計。だがパテック フィリップのサインはなかった/レクタンギュラーケースを備えたRef.515 HUは、1994年4月のオークションで55万スイスフランで落札された。オークション・ノートによると、アメリカの顧客のために製作されたという/都市名が記された回転ベゼルが特徴のRef.542 HUは、その後初めて連続生産されるRef.1415の青写真となった。
1939:Ref.1415
Ref.1415が最も美しい時計のひとつであることよりもまず、この時計がジャンニ・アニェッリに愛用されたことを紹介しよう。彼が1415をシャツの袖口の上に着けている有名な写真がある。戦後、世界を飛び回る華やかな“ジェットセッター”の代表格だったアニェッリは、24のタイムゾーンを同時に確認できるその実用性の高さを理解していた。
アニェッリは他にも多くの時計を所有していたが、ドレスウォッチとしてはパテックフィリップのRef.1415を最も頻繁に愛用していた。理由は簡単だ。1415がスタイルと機能を兼ね備えた傑作だったからだ。ケースは31mmで、ティアドロップ型のラグを備えていた。ベゼルは542 HUから引き継がれ、30都市の名前が記されていた(後に41都市となる)。
コティエが情熱を傾けていたことのひとつに、針のデザインがある。1415で特徴的なのは、円形またはフルール・ド・リス(百合の花)の時針と、剣の形をした分針の組み合わせだ。インデックスはローマ、アラビア、ブレゲの3種類がある。24時間表示リングは昼と夜が区分けされ、太陽と月の小さなアイコン、または正午と0時を示すゴールドのドットを備える。キャリバー12-120 HUを搭載した1415は約115本製造され、さまざまな文字盤のバリエーションが存在する。ゴールドまたはシルバーカラーの文字盤のほか、有名なエナメル職人によるクロワゾネ七宝の文字盤などだ。
クロワゾネ七宝文字盤の1415のほとんどは、ヨーロッパ大陸をモチーフにしており、ユーラシア大陸の地図をモチーフにした例はふたつしか知られていない。1415で最も有名なのは、2002年4月にアンティコルムに出品されたプラチナ・シルバー文字盤のモデルで、660万スイスフランで落札されている。
左:Ref.1415の中でも有名なひとつが、プラチナ・シルバー文字盤のこの個体。2002年4月、アンティコルムのオークションで660万スイスフランで落札された。円形の時針が印象的。右:七宝焼文字盤を持つ1415のほとんどはヨーロッパ大陸が描かれているが、ユーラシアの地図は珍しく、2例しか知られていない。フルール・ド・リス(百合の花)の時針が七宝エナメルの芸術性を高めている。
イタリアの伊達男ジャンニ・アニェッリは、いつもシャツの袖口の上にパテック フィリップの1415を着けていた。
1939:Ref.1416
ヴィンテージのパテック フィリップの醍醐味は、常に奇抜な時計が登場することだ。1939年、パテック フィリップは1415と同時進行でRef.1416を3本生産している。ストレートラグ以外は1415とほぼ同じだが、インナーベゼルが20.8mm(1415は20.5mm)と、わずかに大きいことが相違点である。
Ref.1416は、直線的なラグを除けば1415とほぼ同じ外観をしており、素人目にはまったく見分けがつかないほどだ。1415では20.5mmだったインナーベゼルが、1416では20.8mmと、若干大きくなっている。非常に希少なモデルのひとつといえる。
1940:Ref.1415-1
私が所有したいワールドタイムは何かと問われれば、それはP.シュミット博士のために製作されたユニークピース、Ref.1415-1である。パルスメーター・クロノグラフを搭載した素晴らしいワールドタイムだ。駆動するムーブメントは、キャリバー13” CH HUである。P.シュミット博士が何者であるかは知らないが、ケースと文字盤の再設計を必要とするユニークピースを注文するとは、どれほどの人物だったのだろう。1415ではあるが、都市表示のベゼルが狭くなっている。これは、ベゼルと24時間表示リングの間にパルスメータースケールを収容するためだ。パルスメーターとは、医師が心拍数を迅速に測定するための機器である。
この驚くべき時計は、中心に夜光塗料(ラジウム)を施した珍しいサンレイモチーフの時針を使用している。また、分針とダイヤル内側のドットにも夜光塗料が施されている。さらに、エレガントなブレゲ数字が採用されている点にも注目したい。
ワールドタイム機構にクロノグラフが追加されたRef.1415 -1は、P.シュミット博士のためにたった1本のみ製作された、特別なユニークピース。しかもこのクロノグラフは、パルスメーターとしてのみ使用することができるもの。分針とインナーダイヤル周囲のドット、そしてサンレイモチーフの時針の中央には、夜光塗料が塗布されている。またエレガントなブレゲ数字が採用されている点も素晴らしい。このモデルは、ワールドタイム・クロノグラフRef.5930の前身となるモデルといえる。
1953:Ref.2523
ルイ・コティエが素晴らしかったのは、複雑機構の改良と進化に意欲的であったことだ。初期のワールドタイムは、ベゼルを手動で回転させるものだったが、1953年に新キャリバー12-400 HUを搭載し、都市表示リングを回転させる第2のリュウズを備えたRef.2523を発表する。この時計はファセット加工が施されたラグが特徴で、デザインにおいても絶対的な傑作だった。しかし不思議なことにあまり売れず、結果ごく少量しか製造されなかった。その数はパテック フィリップによれば、2523と2523-1の合計で、イエローゴールドが40本弱、ローズゴールドが10本強、ホワイトゴールドが1本のみだったという。
2523はとにかく美しい時計だ。ケース径は35.5mmと大幅にサイズアップしている。右側には巻上げと時刻合わせに使用する大型のリュウズ、左側にはケース内部の都市表示リングを操作するための小型のリュウズがある。従来のモデルと同様、24時間表示リングは昼夜が分かれており、時針もまた多彩なモチーフのバリエーションがある。2523が商業的に成功しなかった理由は定かではない。しいていえば、当時の世の中がジェット機時代のモダニズムに席巻されていたからではないか。50年代は、旧世界から新世界へのダイナミックなシフトがあった。2523の持つクロワゾネ七宝やギヨシェの文字盤といった装飾は、今日においては実に魅力的だが、当時においては旧世界の印象を与える要素だったのかもしれない。
Ref.2523のクロワゾネ七宝のバリエーションとしては、北米の地図が5本、南米の地図が3本、ユーラシアの地図が3本存在する。さらに、地図ではなく中央に見事なブルーエナメルを配したモデルも2本知られている。そのうちの1本には、イタリアの小売業者ゴッビ・ミラノのセカンドサインが施されていた。この時計は2019年11月のクリスティーズのオークションで、900万米ドルという驚異的な価格で落札された。
2021年5月のフィリップスのオークションでは、ユーラシア大陸を描いたイエローゴールドの2523が700万スイスフランで落札されている。ユーラシア地図の2523は3本しか存在しないとされ、そのうちのひとつはパテック フィリップ・ミュージアムに所蔵されている。
2523にはギヨシェ文字盤のモデルも存在する。この美しいギヨシェは、驚くべき手作業による技法から生まれており、2000年発表のRef.5110以降における現代のワールドタイムでもその審美性を発揮している点で非常に重要だ。
2523はパテック フィリップのワールドタイムの中で特に入手困難なもののひとつとなっている。七宝焼の文字盤のバージョンは、100万米ドルをはるかに超える驚くべき価格で取引されている。
1953年に発表されたRef.2523は、35.5mmのラウンドケースを採用。31mmだった1415から大幅にサイズアップした。ファセット加工されたラグが視覚的にドラマ性を感じさせる。左上から時計回りに:2021年のフィリップスのオークションで、ユーラシア大陸をクロワゾネ七宝で描いたイエローゴールドケースの2523が700万スイスフランで落札された/バーインデックスとギヨシェ文字盤が目を引く/中央にブルーエナメルを配し、イタリアの小売業者ゴッビ・ミラノとのダブルサインが施されたこちらは、2019年のクリスティーズオークションで900万米ドルで落札された/美しいローズゴールドバージョン。
1957:Ref.2523-1
パテック フィリップは2523を、ラグの形状が異なるRef.2523-1に改良した。この時計は50年代後半から60年代にかけて20本が製造され、ギヨシェまたはスムース文字盤を備えている。1966年にルイ・コティエが亡くなったことにより、パテック フィリップのワールドタイムは一旦生産終了となる。
50年代後半から60年代にかけて20本が製造されたRef.2523-1。ギヨシェまたはスムースの文字盤で、ふたつのリュウズを備える基本構造は2523と変わらないが、特徴的だったファセットのラグの形状が変更されている。すっきりとしたノーブルな佇まいが印象的だ。
70年代〜90年代:新たなコミットメント
ワールドタイムが姿を消した間、世界は激しい変化を遂げた。70年代に始まるクオーツショックにより、スイス時計産業は機械式時計の将来性を急速に見失ったのだ。多くのブランドはパニックに陥り、機械式ムーブメントの量り売りを始め、作るために必要な機械を廃棄し、クオーツ技術に適応しようとした。パテック フィリップはクオーツに進出する一方で、機械式時計を支持する姿勢も堅持していた。1976年にはジェラルド・ジェンタがデザインしたブランド初のスポーティシックなステンレススチールウォッチ、ノーチラスを発表しているし、1968年に発表したゴールデン・エリプスも引き続き支持されていた。1977年には、このユニークなケースに搭載する、マイクロローターを備えた美しいムーブメント、キャリバー240を発表している。さらに翌年、ブランドが直面する困難を乗り越えるため新しい社長が就任した。
39歳という若さでパテック フィリップの経営を引き継いだフィリップ・スターンは、スイスの時計産業において最も影響力のある重要なイノベーターである。彼は機械式時計の製造にこだわり続け、永久カレンダーRef.3450、Ref.3940、永久カレンダー・クロノグラフのRef.3970、Ref.5004を発表した。その一方で、超複雑機構の復活を告げるキャリバー89の製作を監督する。また、ジュネーブに世界最大の時計博物館パテック フィリップ・ミュージアムを建設し、ジュネーブ郊外にはマニュファクチュールを建設した。さらにテーマ別オークションを共同企画してヴィンテージウォッチの価格を飛躍的に高めるなど、パテック フィリップを伝説となるレベルにまで高めたのだ。
彼は理解していたのだろう。電子機器が急増し、情報が氾濫する時代において、機械式時計はまったく異なる目的を担っていくということを。それはつまり私たちに感動を与え、夢を見させるということだ。彼は、機械式時計が不滅であることを正しく理解したのである。だからこそ、夢とロマンと旅の究極のシンボルであるコティエのワールドタイムを復活させるための準備を始めた。しかもより機能的にすることを追求し、ひとつのボタンを押すだけでメイン時間、24時間表示リング、都市表示リングがすべて前進する新しい機構を開発。特許を取得した。この新ワールドタイム機構は、彼が社長に就任した前年に発表した、キャリバー240に組み合わせられたのである。
2000:Ref.5110
2000年に発表されたRef.5110は、瞬く間にセンセーションを巻き起こした。約40年ぶりに登場したワールドタイムが、技術的なツールとしてではなく、美と芸術の宝庫として評価されたからである。デザイン面においても、壮麗であった。Ref.96HUを意識したカラトラバ・ケースの直径はRef.2523-1より1.5mm大きい37mmである。また、初めてリュウズガードを採用し、スポーティな雰囲気を醸し出した。文字盤には新旧の要素を組み合わせている。針は菱形で、インナーダイヤルには2523からインスパイアされた美しいギヨシェが施された。
最も重要な改良点はもちろん、新キャリバー240 HUによる実用性である。10時位置のプッシャーを押すと、都市表示リングを簡単に正しいタイムゾーンに設定することができる。そして、リュウズを1番まで引き出して回すと、ローカルタイムが設定できる。同時に、反時計回りに回転する24時間表示リングが1時間ずつ進む。説明書を開く必要がないほど使いやすく、直感的な操作性である。
2000年のバーゼルフェアで、約40年ぶりとなるワールドタイム・ウォッチとして発表されたRef.5110。37mmのカラトラバ・ケースを採用し、Ref.96 HUをさりげなく意識したモデルだ。ワールドタイムとしては初めてリュウズガードを搭載し、スポーティさも加味している。
2006:Ref.5130
2006年のRef.5130では、ケース径が39.5mmと5110より2.5mm大きくなった。また、都市表示リング、24時間表示リング、インナーダイヤルのプロポーションを一新し、エレガントな印象に仕上げている。5130は5110に比べてインナーダイヤルのサイズがケースに対して相対的に小さくなっているが、おかげで都市表示リングのスペースが大きくなり、都市名と都市名の間に心地よいスペースが生まれ、読みやすくなっている。
インナーダイヤルの美しいサンレイパターンのギヨシェも素晴らしい。さらに、コティエのデザインによる円形の時針と剣の形の分針も特徴的だ。ムーブメントは、キャリバー240 HUを搭載している。
5130にはいくつか特別なモデルが作られている。最も美しいバージョンのひとつは、2012年に発表された5130/1R-001で、ブラウン文字盤にローズゴールドのブリックブレスレットが組み合わされている。また限定モデルとしては、プラチナにグリーンダイヤルを組み合わせた“メッカ”などがある。また、ベゼルに44個のバゲットカットのルビーをセットした、5130/12Rにも注目したい。
左:サウジアラビアの都市メッカの限定モデル。プラチナケースにグリーンのダイヤルが組み合わされ、都市名「MECCA」もまた同じくグリーンとなっている。右:2012年に発表されたのは、ローズゴールドのブレスレットバージョン。ブラウン文字盤が非常に洗練された印象だ。
2008:Ref.5131
ティエリー・スターンは、社長に就任する1年前である2008年、クロワゾネ七宝の文字盤を復活させたRef.5131を発表し、コレクターの心を熱狂させた。その魅力は、何時間眺めても感嘆できる真の芸術品へと昇華させたこと。まさにロマンチストのための時計だ。5131は当初はアメリカ、ヨーロッパ、アフリカ大陸が描かれたイエローゴールドの時計と、アフリカ、ヨーロッパ、アジア、オーストラリアの地図が描かれたホワイトゴールドの時計の2種類が発表された。2018年には、このリファレンスの生産終了にあたり、北極を含む北半球の地図をあしらった、ブレスレットを備えたプラチナ製バージョンが発表された。
5130をベースとし、ワールドタイムの伝統ともいえるクロワゾネ七宝を復活させたのがRef.5131だ。発売されるや否や、カルト的な人気となった時計である。ダイヤル上の完璧で鮮やかな色合いの世界地図は、私たちがこの地球上でいかに相互に関連しているかを見事に表現している。左:アメリカ、ヨーロッパ、アフリカが描かれたイエローゴールドケースモデル。右:2018年に発表されたのはブレスレットを備えたプラチナケースモデル。クロワゾネ七宝により、北極を含む北半球の地図をあしらっており、その「ノースビュー」は見るからに壮大である。
2011:Ref.7130
2011年、パテック フィリップは36mmの女性用ワールドタイムRef.7130を発表した。それまでのワールドタイムも特に大きな時計ではなかったから女性でも着用できただろうが、パテック フィリップが女性のために作ろうと考えたことが素晴らしい。とはいえ、36mmでベゼルにダイヤモンドをセットしたモデルなら男性でも着けられるだろう。7130では5110の菱形の時針が採用され、初めはローズゴールドケースにアイボリーのハンドギヨシェ、温かみのあるブラウンの24時間表示リングと都市表示リングを備えたバージョンが作られた。
2017年には、インナーダイヤルにギヨシェを施したブルーグレイ文字盤のホワイトゴールドバージョンが登場した。
2014:Ref.5575、7175
2014年には創業175周年を記念して、インナーダイヤルの中央にリアルなムーンフェイズを備えたRef.5575とRef.7175が発表された。どちらも竪琴型の独創的なラグが特徴である。
ムーンフェイズの表示は、メタライズされた2枚のガラスディスクによるものだ。カットが施された上側のディスクは固定されており、下側のディスクが回転することにより月の満ち欠けを表現する。ちなみに時針は星をイメージしたデザインとなっている。5575はホワイトゴールド製の39.8mmケース、7175はベゼルにダイヤモンドをセットしたローズゴールド製の38mmケースである。5575は1,300本、7175は450本製造された。
パテック フィリップ創業175周年記念の一環として2014年に発表されたのが、Ref.5575とRef.7175である。ロマンチックなワールドタイム機構に、さらに2枚のディスクによる神秘的かつ超リアルなムーンフェイズを組み合わせている。左:450本限定のRef.7175は、38mmのローズゴールドケースで、ベゼルにはダイヤモンドがセットされている。右:Ref.5575は、1,300本限定で、39.8mmのホワイトゴールドケースが用意された。
2016:Ref.5230
2016年、パテック フィリップは5130の後継機であるRef.5230を発表した。この時計は2523のデザインを継承しているが、ラグはファセットに代わって翼状となり、ベゼルはケースに向かって急な傾斜をつけた平面を採用している。5130からの大きな変更点としては、リュウズガードがなくなったこと。ケースサイズも38.5mmと1mm小さくなり、美しくエレガントだ。文字盤にはかつてなく精巧なギヨシェが施されている。
時針は南天星座をイメージしたものになり、分針は5110のような菱形になった。5230は、5110、5130と同様にキャリバー240 HUを搭載している。
2019:Ref.5231
5230を盛り上げるのはもちろん、文字盤に見事なクロワゾネ七宝の地図を備えたRef.5231である。興味深いのは、パテック フィリップのサインが正式にエナメルダイヤルの表面に描かれていることだ。イエローゴールドとローズゴールドの両方で作られた5231は、まさに息を呑むような時計である。
2016年に登場したRef. 5230(左)は、リュウズガードのない現代的なワールドタイムの第1号機である。ダイヤルには、放射状に広がる波と、独創的で魅力的な要素が絡み合う複雑なギヨシェ模様が施されている。さらに2019年には、このモデルのクロワゾネ七宝文字盤のバージョン、Ref.5231(右)が作られた。どちらもパテック フィリップのサインがベゼルではなくダイヤルに施されるようになった。2523を彷彿とさせるファセット加工のラグとともに、より大きなフラットベゼルを備えている。
2016:Ref.5930
5230と同じ2016年に発売されたRef.5930は、ワールドタイム機能にフライバッククロノグラフを組み合わせている。先例にあたるのは、先に述べたP.シュミット博士のために作られた1415-1だ。1415-1の面白いところは、クロノグラフのサブダイヤルがないため、クロノグラフがパルスメーターとしてしか機能しないことだが、これはまさにグッド・ドクターが望んだことなのだろう。
5930の場合、ティエリー・スターンが30分積算計、さらにはクロノグラフの秒目盛りを備えた完璧なクロノグラフを望んだことは明らかだ。極めて明確かつ直感的に情報を読み取れるようなデザインとなっている。クロノグラフは、中央に取り付けられた大きなクロノグラフ秒針と、24時間表示リングのすぐ外側に固定された秒目盛りで読み取る。経過時間は、6時位置のカウンターで読み取る。ワールドタイムに関する情報は、他のコティエ式ワールドタイムと同じだ。右側のふたつのクロノグラフプッシャーと左側のワールドタイムプッシャーは、素晴らしいデザインバランスを保っている。文字盤の情報量が多いため5110のような控えめなギヨシェ模様となっている。
ケース径は39.5mmで、厚さは12.86mm。強力な機能を考えると非常にスリムだ。また翼状のラグを含め5230とほぼ同じデザインを実現している。
5930の素敵なバリエーションとして、2019年にシンガポールで開催された「ウォッチアート・グランド・エグジビション」の記念モデルがある。赤から黒のグラデーション文字盤が印象的だ。
ワールドタイム機能に30分積算計を備えたフライバッククロノグラフというユニークな組み合わせが特徴のRef.5930。左:2019年にシンガポールで開催されたエグジビションを記念して作られた限定モデル。赤から黒のグラデーションが美しい。右上:5230と同じ2016年に発売された5930の通常生産モデル。右下:搭載するムーブメントは、キャリバーCH 28-520 HU。シリコン製ヒゲゼンマイと脱進機を備えた超薄型のコラムホイール式垂直クラッチ自動巻きクロノグラフである。
2017:Ref.5531
12時位置のローカルタイムの時刻を打つミニット・リピーターを搭載したRef.5531は、2017年にニューヨークで開催された「ウォッチアート・グランド・エグジビション」で初めて発表された。昼と夜のマンハッタンの情景を描いたふたつのデザインで合計10本が作られた。2018年にはユネスコ世界遺産登録されているジュネーブ湖畔ラヴォー地区のぶどう畑を描いた、通常生産の5531Rを発表した。2019年には、シンガポールでのエグジビションを記念し、シンガポールの地図をクロワゾネ七宝で表現したバージョンを発表している。
ミニット・リピーターを組み合わせたRef.5531は、メゾンで最も複雑で芸術的なワールドタイムといえる。左:ジュネーブのぶどう畑の風景を描いた通常生産モデル。右上2枚:ニューヨーク・マンハッタンの情景を昼と夜で描き分けた2017年の初代。右下:キャリバーR 27 HU。音を増幅させるため、ゴングが地板ではなくケースバンドに取り付けられている。
以上で、パテック フィリップのワールドタイムという美しい超越的なオブジェへの旅を終えたいと思う。この“時間の旅”にお付き合いいただいた諸兄に感謝するとともに、皆様にとって最高の夏が訪れるよう祈っている。パテック フィリップのワールドタイムを身に着けていれば、世界の都市での楽しい瞬間がさらに忘れがたいものになるだろう。
THE RAKE JAPAN EDITION issue 47