A FLAIR FOR FUNK

ファンク・ミュージックの魅力

January 2023

ファンク・ミュージックは、1960年代にアメリカで流行したジャズ、ソウル、そしてR&Bのサウンドを、アフリカ系アメリカ人が歌ったものが起源となっている。これほど明確に、そのルーツをひとりのアーティストに特定できるジャンルはないだろう。

 

 

 

by CHRIS COTONOU

 

 

 

 

 

 

 ファンクの起源を理解するためには、まずジェームス・ブラウンを知る必要がある。ヴィヴィッドなサウンドとセクシュアリティを持つ彼の1967年のアルバム『Cold Sweat』は、批評家たちから最初のファンク・レコードとされている。しかし、ブラウン自身は自伝の中で、1964年の『Out of Sight』でサウンドが変わったと語っている。それはまったく新しいものの始まりだったという。

 

「バンドと俺のリズムが別の方向に向いているのがわかるだろう?」

 

 このレコードでは、グルーヴィで革新的な、新しいビートの誕生を聞くことができる。R&Bとは異なり、一連のコードを繰り返しているわけではない。ブラウンはリズムの最初のダウンビートを重視し(1971年の楽曲『Make it Funky』のドラムを聴くとよくわかる)、自分とバンドが即興で演奏できるような空間を作り出した。ブラウンは聴衆に「説教」をし、ときには挑発し、魅了してしまったのである。

 

 彼は「ハスラー」であること、女にモテる男であることを歌っていた。ライブでは、即興でビートを刻むために、歌詞が落とされることも多かった。

 

 

 

 

 

 このセクシーなサウンドゆえ、ファンク・ミュージックは1970年代のディスコを席巻した。クール・アンド・ザ・ギャング、ファンカデリック、アース・ウィンド&ファイアー、ブラザーズ・ジョンソンなど、ブラウンが作り上げたテンプレートに続くグループが相次いだ。そしてこのジャンルには、スライ&ザ・ファミリーストーンによって再び革新がもたらされた。ロックグループから影響を受けたサイケデリックなサウンドと、独特のベース・スラッピング奏法が導入されたのだ。彼らのグループにはさまざまな人種が混在しており、歌詞は公民権運動後のアメリカにおける平和、愛、そして進歩を訴えていた。

 

 1960年代後半から70年代初頭にかけて、大規模な社会運動などは衰退していた。それに代わって、ファンク・ミュージックを通じた変革のためのムーブメントが出現したのである。

 

 ジェームス・ブラウンによるムーブメントには、スリリングな叫びがあった。「大声で叫べ、私は黒人だ、そして誇りに思っている」。一方、スライ&ザ・ファミリーストーンの『There’s a Riot Goin’ On』(1971年)では、警察の横暴、不平等、ベトナム戦争など、分裂と緊張に満ちたアメリカの闇の部分が歌われている。

 

 

 

 

 

 若者たちは、ファンクのレコード・ジャケットや政治ポスター、ステージ・ライブでのファッションを真似るようになった。それはこの年代のモータウンやソウルシンガーよりも、さらにくだけたイメージだった。贅沢で派手な色やプリントに重点が置かれていた。

 

 ファンクでは歌詞と同じように、ファッションにも即興性があった。ストリートやクラブで、どうやってスタイリッシュに見られるかがすべてだった。フレアーパンツ、シルクのシャツ、フラットキャップ、チェックのモチーフは反体制的で、ファンキーなサウンドに身を委ねる彼らのユニフォームといえるものだった。

 

 同時期、映画界もまたファンク・ミュージックに注目していた。そして“ブラックスプロイテーション”と呼ばれる一連の映画が次々と製作された。そこではタフでセクシーな“ソウルブラザー”的なキャラクターが描かれた。『シャフト』(1971年)、『スウィート・スウィートバック』(1971年)、『スーパーフライ』(1972年)、『フォクシー・ブラウン』(1974年)などが公開され、それらのサウンドトラックはおしなべてファンキーでクールだった。

 

 物語はアフリカ系アメリカ人が被った人種差別を描いた政治的なテーマであった。ハリウッドでは決して製作されない、ブラック・パワーの姿を映し出したのだ。ブラックスプロイテーション映画は、後に監督クエンティン・タランティーノが『ジャッキー・ブラウン』(1997年)で、オリジナルのファンク・スコアをフィーチャーしたことで再び知られるようになった。

 

 

 

 

 

 ファンクはあらゆる人々の共感を呼び、世界中の音楽ジャンルにインスピレーションを与えることになった。アフロビートは、ファンクと地元の歌やリズムを融合させたナイジェリアの音楽である。

 

 チャカ・カーンやバリー・ホワイトなど、70年代後半から80年代にかけて活躍したディスコ・ミュージックのアーティストたちの多くは、ファンクに起源を持っている。『Kung Fu Fighting』(1974年)や『I’m Every Woman』(1978年)といった曲は、ファンキーなベース・サウンドが特徴だ。

 

 しかし、ラップほどジェームス・ブラウンとその時代のリズムに影響を受けたジャンルはない。今日のアメリカでは最大のジャンルであり、世界中で最も人気のある音楽のひとつである。ヒップホップ創世記のシュガーヒル・ギャングやアフリカ・バンバータは、ダンサブルなファンクのリズムにMCを乗せていた。90年代になると、ドクター・ドレー、スヌープ・ドッグ、2パックによるロサンゼルスGファンクが続いた。彼らの楽曲は、警察による残虐行為や不平等に光を当て、やはり政治的なテーマを取り入れていた。

 

 そして2013年、ファレル・ウィリアムスの『Happy』で、ファンク最大のヒットを記録した。1970年代のセクシーでオプティミスティックなサウンドへの回帰であり、マーク・ロンソンやブルーノ・マーズといったアーティストたちが、さらにこれに続いていくのである。

 

 1960年代にジェームス・ブラウンが最初のダウンビートを刻んだとき、彼はそれがアメリカの服装や話し方、選挙活動を変えることになるとは思いもしなかったに違いない。ファンクは、ジャズとヒップホップの間に挟まれた時代における、魔法のような音楽だったのである。