北川美雪の「良い服」は人生を変える
Good Clothing Can Change Your Life

VESTAのスーツコンサルタント、北川美雪氏が、「パワーオブスーツ」をキーワードに、スーツを単なる服ではなく「人生を変える武器」として捉え、その魅力をお伝えしていく。

【第10回】良い服を選ぶことが、生き方になったとき——サステナブルに導かれたテーラード人生

Saturday, January 17th, 2026

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ヨハン・ヴィークストロムさん

インフルエンサー

Instagram: @sartorial_fin

 

 

大柄のグレンチェックを、ソフトな色合わせであくまで穏やかに。チェックにボールドなレジメンタルタイを重ねるバランス感覚も印象的。 

 

 

 

 フィンランドでは、人の装いを褒めることはあまり一般的ではありません。気づいていても、心の中に留める。そんなある種日本とも似た空気がある国で、テーラードを日常に取り戻し、周囲の温度まで少しずつ変えていく人がいます。 

 

 Johan Wikström(ヨハン・ヴィークストロム)。ITコンサルティング業界でキャリアを積み、現在はローカル企業でデータ&アナリティクス部門を率い、100名を超える組織をマネジメントするビジネスリーダーです。同時に、InstagramでThe Sartorial Finn として世界中のクラシックメンズウェア愛好家から支持を集める存在でもあります。 

 

 彼の魅力は、「カジュアル化の波に逆らってスーツを着ている」という単純なストーリーではありません。なぜそうなったのか。その選択が今の人生とどう結びついているのか。そして父として、仕事人として、装いをどう“現実に合わせて進化”させているのか。そこに、私がこの連載で伝えたい「服が人生を変える」の本質がありました。 

 

 

 

父としての時間が、装いを変える 

 

 ヨハンは2歳の男の子の父親です。つい最近も約4ヶ月の育休を取り、息子さんの育児に専念していました。夏の別荘で過ごしたり、旅をしたり。親子の時間を、心から豊かだと語ります。 日本では、父親の4ヶ月育休はまだ“長い”と感じる方が多いかもしれません。でもフィンランドでは、それが自然な選択肢として存在しています。

 

 そして、その「父としての現実」が、彼の装いをより“機能的で美しい形”へと導いていました。 

 

 彼はテーラードジャケットをよく着ます。ただし、以前よりフルスーツやタイの頻度は減ったといいます。その理由は明確。小さな子どもと暮らす日々は予測不能で、汚れや破損のリスクもあります。だからこそ、丈夫な生地、扱いやすい素材、上下別々のスタイル(セットアップ)へとシフトしているのです。 

 

 これは「格好よさを諦めた」のではありません。 “生活の中で成立するエレガンス”へ、進化したのです。 

 

 

歴史あるテンペリアウキオ教会のほど近く、ヘルシンキ中心部にて。コートとタイのネイビーを揃えることで、街の空気に溶け込む静かな統一感を演出する。サングラスは、装いの柔らかさを程よく引き締め、都会的な輪郭を与えている。 

 

 

 

テーラードに出会った瞬間 

 

 ヨハンがクラシックメンズウェアに本格的に惹かれたのは、6〜7年前。COVIDの少し前でした。当時は法律事務所で働いていて、そこは今でも比較的スーツが残る数少ない職場環境。そこで「スーツって格好いい」と感じたのが最初だったと言います。 

 

 決定打はもうひとつありました。それは、サステナビリティ。彼はトレンドを追い続けることに疲れていたそうです。スーツに惹かれる以前からファッションを愛していた彼は、年に2回更新される新しいファッション、買い替えの連続。そこから抜け出し、「タイムレスで長く着られるもの」を選びたかった、と当時を振り返ります。 それが、オーダーへの入口になりました。 

 

 

 

“最初の失敗”が、学びの始まりだった 

 

 法律事務所のパートナーが紹介してくれたテーラーで、初めてのメイド・トゥ・メジャーを経験します。けれど、結果には満足できなかったそう。理由は、腕の良し悪しではなく、「自分の希望を言語化できなかった」ことでした。 

 

 メイド・トゥ・メジャーの世界には、襟の形、肩の構造、ゆとりの取り方、パンツの落ち方など、共有すべき“言語”がある。ヨハンはそれを知らなかったが故に、伝えられなかったそうです。 

 

 ここが、彼のすごいところです。彼はそこで諦めず、徹底的に学び始めました。オンラインで研究し、用語を覚え、違いを見分ける目を鍛え、別のテーラーでもう一度挑戦する。すると結果は改善し、さらにもう一度。やがて彼は「中毒になった」と笑いながら話します。 

 

 

「ダブルブレストのスーツが好きなんです。最近また人気が戻ってきていますし、ネイビーでもよりフォーマルに映る。シングルブレストの定番から、少しだけ抜け出せる存在でもあります」。クラシックなシングルブレストのネイビースーツに代わる一着として仕立てられ、セミフォーマルな場で着用することが多いという。撮影は、ヘルシンキ・ヤトカサーリにあるクラリオン・ホテル・ヘルシンキにて。 

 

 

 

ワードローブを“ゼロから”作り直す覚悟 

 

 ヨハンは服を買い足すのではなく、“作り直した”と言いました。古い服を売り、手放し、ワードローブを再構築。最初の一年で2万〜2万5千ユーロ(約数百万円規模)をかけたそうです。 

 

 派手に聞こえるかもしれませんが、彼にとってそれは浪費ではなく、投資であり、学習のコストでした。 

 

 7年が経った今、当時のスーツは1着、シャツも1〜2枚しか残っていないのだそう。なぜなら、彼の好みが“微細に進化”し続けたからです。Instagramを見れば、初期から今まで一見クラシックで一貫しているように見えますが、テーラリングに詳しい人なら、フィット感、構造、柔らかさの違いがすぐ分かる、と彼は言います。 

 

 

 

極端ではなく、“中庸の精度” 

 

 テーラードの世界にも流行があります。細身から、ゆったりへ。丈も変わる。シルエットの振れ幅がある。でもヨハンは「極端には行かない」と言います。常に真ん中に近い位置にいて、少しだけ揺れる。そこに“自分の軸”がある。 

 

 変わったのは、構造の柔らかさを好むようになったこと。以前はもう少し構築的なジャケットが好きだったけれど、いまはよりイタリア的な柔らかい仕立て、ソフトテーラリングが好みだそうです。カジュアル寄りのテーラードに惹かれている、と。 

 

 つまり彼は、トレンドに飲まれているのではなく、人生のフェーズに合わせて“自然に”変化しているのです。 

 

 

父からの教えである「少なくとも、きちんとしたスーツを一着は持っていなさい」という言葉を、彼は現代的な解釈で体現する。艶やかなネイビーファブリックで仕立てたダブルブレストに、手元のレベルソとシルバーバングルの対比。そこに、今の時代のスーツスタイルを生きる人物像が映し出されている。 

 

 

 

秘密のアカウントが、世界へ広がった 

 

 彼が最初からインフルエンサーを目指していたわけではありません。Instagramでスーツの参考画像を見ていたら、フィードがそればかりになり、友人の投稿が埋もれてしまった。そこで“自分のための記録用”に別アカウントを作ったそうです。 

 

 最初は鏡の前で顔を映さない自撮りから始まりました。「何が好きで、何が好きじゃないか」を残す日記。妻にも友人にも言わない、本当に個人的な記録だったそうです。 

 

 ところが、ある友人が背景の部屋で本人だと気づきます。その時点で、すでにフォロワーは1万5千人。秘密は終わり、顔出しを始め、自然に拡大していったのが、インフルエンサーThe Sartorial Finnの誕生物語です 写真は、もともと趣味だったそう。メンズウェアと写真。二つの趣味が交差した結果、いまの“上質なビジュアルストーリー”が生まれました。

 

 フォロワーはアメリカが最大で、ヨーロッパ、そしてアジア(日本・ベトナム・台湾等)にも広がっている。国別に極端な偏りはなく、世界に分散しているのも印象的でした。 

 

 

 

ルーツは祖父のビスポーク、父の一言 

 

「あなたのスーツの美意識はどこから来たのですか?」。私がそう尋ねると、ヨハンは祖父の話をしてくれました。 

 

「祖父はフィンランドでは珍しく、ずっとビスポークスーツを着ていたんです。後になって若い頃の写真を見たら、ダブルブレストを含め、見事に端正で、最後までスタイルを貫いた人だったとわかります。子どもの頃は理由が分からなくても、祖父をとても尊敬していました」 

 

 そして父からは、こう言われて育ちました。「少なくとも、きちんとしたスーツを一着は持っていなさい」。その価値観は、彼の中に深く残っている、とインタビューを通して感じました。 

 

 

 

2プリーツ、ベルトレス仕上げのトラウザーは、かつてのテーラリングの伝統であり、同時に新たなリバイバルでもある。クラシックとモダンが重なり合う、その瞬間にこそ、テーラードファッションの醍醐味がある。タイはイタリアのステファノ・カウ。  

 

 

 

フィンランドの職場は“超カジュアル”

 

 フィンランドでは、コロナ前はもちろん、もうずっと前から職場の服装はカジュアルだそうです。 今のIT業界では、在宅勤務が多く、オフィスにいる人も少ない。服装はTシャツ、スウェット、セーター、ジーンズ。チノパンすら珍しく、ジャケットはさらに少ないとか。

 

 そんな環境で、ジャケットとドレスシャツ、時にタイまで締めるヨハンは、当然目立ちます。本人も「かなり目立つ」と言っていました。

 

 でも、否定的な反応は一度もないそうです。周りの顔色を窺って自分の服を決める日本と違い、個を重んじる北欧ならではの精神的な豊かさを感じます。むしろポジティブなコメントしか受けていない、と彼は言います。最初は「コスプレと思われるのでは」と心配したけれど、必要のない不安だった、と振り返ります。自分が自然に着ていて、そこに自信があれば、人は“似合っている”と感じ、褒めたくなる。このように彼と話していて感じました。

 

 そして面白いことに、彼の装いは友人にも影響を与えているそうです。友人たちが突然スーツを着るわけではないけれど、シャツが少し良くなり、靴がローファーやチャッカブーツになる。服への関心が上がったとか。 彼こそ、真のインフルエンサーと言えるでしょう。

 

 

フィンランドの“通過儀礼”と正装の記憶

 

 フィンランドの興味深い文化として、日本の成人式にあたるような、Konfirmaatio (コンフィルマーティオ:堅信礼)という儀式があります。これは15歳頃のキリスト教行事で、スーツを着るのが一般的。そして17歳になると高校のダンスパーティ(いわゆるプロム)があり、伝統的にはホワイトタイを着るのだそうです。

 

 今はホワイトタイを持たない人が多いため、スーツで済ませる場合も増えているそう。ヨハンは、父のホワイトタイを受け継ぎ、テーラーで直して着たそうです。なんという美しい思い出でしょうか。

 

 “受け継ぎ、直し、節目で身につける”。これほど「良い服が人生を変える」を体現するエピソードはありません。このような正装儀式を若いうちに経験するフィンランドの話を、日本人として羨ましく伺いました。

 

 

ブラウンのダブルブレストスーツに、赤のマイクロストライプシャツを合わせて。ポケットチーフのパフセッティングが描く丸みが、全体にほどよい柔らかさをもたらしている。ヨハンがこのスタイリングで特に気に入っているのは、トーナルなバランスだという。一見ブラウンに見えるスーツ生地には、ほのかに赤みが潜み、そこへ赤のストライプシャツと赤系のタイを重ねることで、控えめなトーン・オン・トーンが成立している。強さが出やすい赤という色を、あえて抑制的に取り入れる——その難しさを、美しくクリアした装いだ。 

 

 

 

服がくれるものは、外側の評価だけではない 

 

 装いによる“直接のメリット”はあるのか。ヨハンが挙げた具体例は、香港での出来事でした。友人たちが入れなかったバーに、自分だけ入れた。理由は「きちんとした服装をしていたから」。 でも、彼が本当に語りたかったのはそこではありません。 

 

「自分が良く見える服を着ると、心地いい。自信が出る。生産性も上がる」

 

 装いは、気分を変え、仕事モードへスイッチを入れ、思考の状態を整える。ほんの少しの差かもしれない。でも確かにある、と彼は言います。 

 

 

 

人生を支える、良い服のかたち 

 

 ヨハンの物語は、旧来のフォーマル礼賛ではありません。カジュアルが当たり前の国で、ITの現場で、父として現実を生きながら、それでもテーラードを“自分の生活に合う形”へ落とし込む。そこに、現代のエレガンスがあります。 

 

 良い服は、誰かを驚かせるためにあるのではない。自分が自分でいられるためにある。そして人生のフェーズに合わせて、柔らかく形を変えながら、あなたを支え続ける。 

 

 それが、ヨハンが教えてくれた「良い服は人生を変える:GOOD CLOTHING CAN CHANGE LIFE」でした。 

 

 

 友人にInstagramでのThe Sartorial Finnとしての存在が知られるきっかけとなった、ヘルシンキ時代の自宅で撮影された一枚(現在は転居)。フィンランドをはじめとする北欧らしい、静かでミニマルなインテリアを好むというヨハン。そこには、日本の「禅」にも通じる美意識があると、彼は語る。 

 

 

Photography: courtesy of Johan Wikström (The Sartorial Finn) 

画像:本人提供 

 

 

 

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このインタビューは英語です。必要に応じ、言語設定の上でご視聴ください

 

 

Author: 北川美雪(きたがわ みゆき)

東京・銀座のテーラー「VESTA by John Ford」のゼネラルマネージャー。英語、イタリア語、フランス語に堪能、メンズファッションのエキスパートとして25年のキャリアを持つ。確かな素材選びとセンスの良い仕立てに定評があり、国内外のトップ経営者、政治家、各国の要人・大使らが顧客として名を連ねる。歴代の駐日イタリア大使にも絶賛された。ファッションに関する深い造詣を持ち、多くの雑誌などで記事を執筆している。好きな食べ物は「てっさ」である。https://johnford.co.jp/