From Kentaro Matsuo

THE RAKE JAPAN 編集長、松尾健太郎が取材した、ベスト・ドレッサーたちの肖像。”お洒落な男”とは何か、を追求しています!

手に触れるものを、すべて黄金に変える!?
麦野豪さん

Friday, December 10th, 2021

麦野豪さん

オフィス麦野 代表取締役会長

text kentaro matsuo  photography natsuko okada

 私が作ってよかったと思うものは子供、そして買ってよかったと思うものは、オーデマ・ピゲの“ロイヤルオーク エクストラシン”という時計です。この時計、手に入れたときは普通に定価で買えましたが、その後、あれよあれよという間にプレミアがつき、いまではアフターマーケットで、とんでもない価格で取り引きされています(もちろん売りませんけどね)

 

「私がオーデマ・ピゲのジャパン社を立ち上げた時は、ぜんぜんイメージが違いました。『オーデマ・ピゲってどう思う?』と人に聞くと、『知っているけど、おじいさんの時計でしょ』という答えばかりでした。世界三大時計ブランドであるにもかかわらず、“アガリ時計”だと思われていた(つまりリタイア後に買う、人生最後の時計という意味ですね)。これではいけないと思い、ターゲットを大幅に変更したのです。60歳以上だったものを、3~40歳代にまで落としました。メンズ・ライフスタイル誌でブック・イン・ブックをしたのは業界で初めてでした。それ以外では高級ゴルフ場に壁掛け時計を自ら掛けて周ったり、銀座にビルを建てたり・・私自身もヤンチャなフリをしていた。ネクタイをせず、シャツのボタンを2つ外したり(笑)。当然、風当たりも強かったですよ。しかしこれは徹底的にやらなければダメだと思っていました」

 

 その甲斐あって、ロイヤルオークは若い人たちの間でも、憧れの時計となりました。

「ある日、某デパートに30年も前にロイヤルオークを買ったというお客様が『どうしても、言いたいことがある』と来店なさったのです。担当は、『イメージを変えるな』と叱られると思って、びくびくしていたらしいのですが・・。

その方は、『私のロイヤルオークを息子がどうしても欲しいと言うんだ。親父、いま流行っているんだぞって。ずいぶん前に買ったものなのに、息子からそんなことを言われるとは思わなかった。いいモノを売ってくれてありがとう!』と仰ったそうです。私はこの話を聞いたとき、本当に嬉しかった・・」

 

 今回ご登場の麦野豪さんは、日本でオーデマ・ピゲが大人気となるきっかけを作った人物です(そういう意味で、私は麦野さんに心から感謝しています)。

そしてAPだけではなく、モンブラン、リヤドロ、東京クラシッククラブなど、手掛けたブランドがぜんぶ大成功するというリブランディングの天才です。

  時計の針を大学時代まで戻し、その歩みを追ってみましょう。

 

「大学時代はバイトばかりしていました。面白かったのはルートセールス。空気清浄機を売っていました。地図を渡され、中小企業のドアをいきなりノックして、ひとつひとつ回っていくのです。その頃はオフィスでタバコを吸うのが当たり前でしたから、需要はあった。しかしもちろん門前払いされることも多かった。でも私は、学生だったにもかかわらず、いきなりトップセールスになりました。それは“2週間お試しキャンペーン”をやったからです。『買わなくてもいいですから、とにかく置くだけ置かせてください』と言って、とりあえず設置だけしてもらった。ところが人間は、すでにあるものがなくなるのは嫌だから、そのまま契約となるのです。ここで学んだのは、モノを売ろうと思ったら、『買ってください』と言ってはいけないということです。いかに欲しいと思わせるかが大事なのです」

 

 就職は、「とにかくアメリカに行きたかったから」と商社をお選びになります。

「配属は畜産部というところでした。牛肉や豚肉の輸入を手掛けていた部署です。当時は“牛肉・オレンジの輸入自由化”が話題となっている頃で、いろいろな商社がマーケットに飛び込んでいました。ところが当時輸入肉というものは、“格付け”がすべての世界でした。格付けが同じなら、誰が売っても同じような価格(相場)にしかならず、差別化がしづらかった。そこで肉のブランドを作ろうと思いました。例えば、アンガス牛の雌牛に和牛の精子をかけ合わせて、“アメリカ和牛”を作ったり、アメリカのバークシャー(日本の六白黒黒豚と同じ原種)協会を探し当てて、そこに日本の職人を入れて商品開発したものを、“米国黒豚”として売り出したり・・。実は、“ブランド”という言葉は、牛の“焼印”が語源なのです。私にとってこの体験は、文字通りブランディングの原点となりました」

 

 並行して、「学生時代にあまりにも勉強をしなかったから」と一念発起しMBAを取得、国際的な活躍がスタートします。

「このまま日本の会社にいても、年功序列で、20年ほど経ってようやく課長あたりかなと思い、退職を決意しました。その後、アメリカ→フランス→ドイツ→スイス→スペインの会社に務めました」

 このインターナショナルぶりは、すごいですね。私が初めてそのお名前を知ったのは、ドイツ時代=モンブランを手がけられていた頃でした。

 

「昔、モンブランといえば、デパートでは文具売り場にあるのが普通でした。そして文具売り場は、上の階に追いやられている。これには理由があって、お母さんがゆっくりと洋服や化粧品を買っている間、子供はおもちゃ売り場、お父さんは趣味のコーナー(ともに上階にある)でブラブラしているというのが、デパートのあり方だったからです。モンブランを探すなら、キティちゃんを探せと言われたものです。しかしモンブランを、ペン屋から脱却させ、ライフスタイル・ブランドに生まれ変わらせるというのが私のミッションでした。それまでなかった時計や鞄、革小物、アイウエアなどをラインナップさせ、デパートの1階にお店を作らせてもらった。ペンにおいても、輝石入りの短いタイプ“ボエム”を、アクセサリーとして売り出しました。皆がジャケットの胸ポケットに、モンブランを差しているのを見て、ニンマリしたのを覚えています。これはひとつの商品だけを売ってきたブランドが、市場の変化あるいは縮小に直面した時に、どうやってその領域を拡大していくかの、典型的なケーススタディとなりました」

 

 APでのご活躍は前述の通りですが、その後のリヤドロでも、手腕を遺憾なく発揮されました。日本のみならず、アジア全体の統括を任されたのです。

「スペインのリヤドロは、私の中では“義理のお母さんが好きなブランド”という位置づけでした。社内では皆、口を揃えて、『リヤドロといえば、人形』というのです。『じゃあ君たちは、人形を買うのか?』と聞いたら、『買わない』という。こりゃイカンと思いました(笑)。そこで私は、ブランドの定義そのものを変えることにしました。磁器人形ではなく、“ヨーロピアン・ポーセリン・アート”のブランドとしたのです。昔からポーセリン(磁器)は、欧州では白い黄金と呼ばれ、贅沢品でした。そしてリヤドロの出自は、もともとは造形美であったからです。工場をアトリエと呼び、職人をアーティストと言い換え、商品は人形ではなくアートピースとしました。ポーセリンで表現するアートとしたことで、市場は無限に広がりました。さまざまなアーティストのオブジェやランプなど、それまでなかった製品もコレクションに加えました。中でも大当たりしたのは、ホースコレクションの“ディープインパクト”です。社台ファームにまで行って、競走馬の美しさを徹底的に研究し、製作しました。これはリヤドロ史上、最も売れた商品となり、日本の売上げはアメリカを抜いて世界一となりました」

 

 馬には縁が深く、乗馬場を擁するゴルフコース、東京クラシッククラブの代表発起人も務められました。

「全盛期と比べてゴルフ人口は半分になったのに、日本には2400ものコースがあった。女性や子供は締め出され、名門はオッサンばかりで、ゴルフ会員権は売れない・・。そんな中で2401番目を作っても、絶対にうまく行かないと思いました。そこで私は、本来の意味での“カントリークラブ”を作ろうと考えました。日本でカントリークラブといえば、イコール・ゴルフ場のことですが、アメリカでは“郊外でしかできないスポーツ=乗馬、ゴルフ、ハンティングなどを楽しむプライベートクラブ”です。そもそも定義が違うのです。ですから乗馬クラブを併設し、家族で訪れても楽しく過ごせるよう工夫し、年会費も止めて月額制としました。誰もやらなかったことを全部やったら、これも大人気となりました」

 

    次々と披露されるヒット話が面白く、ついファッションについてお聞きするのを忘れていました・・

 

 スーツは、タキザワシゲル、バーニーズ ニューヨークで購入。

タイも、バーニーズのオリジナル。

シャツは、アルコディオ。

「私は首が細い割に手が長い(39cmと86cm)。シャツはすべてオーダーしていたのですが、これは干場義雅さんに薦められて試してみたら、ぴったりでした」

 

シューズは、ジョンロブ。

 

  そして時計は、麦野さんがいま一番力を入れている、エベラールです。

「エベラールは、スイスの時計ですが、イタリア海軍将校の制式時計に選ばれたことから、イタリアでは昔からエリート層や特権階級がつける時計というイメージが定着しています。かのジャンニ・アニエッリが愛用していたことでも有名です」

ジャンニ・アニエッリはフィアットの元会長で、希代のファッショニスタ。そしてわれわれの雑誌“THE RAKE”の名前の由来となった人物でもあります。エベラールは、本誌にとっても、縁深い時計といえます。

 

「エベラールは、まさにかつてのオーデマ・ピゲのような存在です。創業以来134年間、一度も絶えることなく機械式時計を作り続けてきたところ、頑なに独立性を保ち、いまだ家族経営を続けているところ、そして今まさに世界市場へ打って出ようとしているところが、当時の状況そっくりです。ミュージアムを作り、自社キャリバーの開発がスタートしたことも、まるでデジャ・ヴュのよう。現在アイコンであるクロノ4の価格は100万円を切っていますが、かつてはロイヤルオークも、100万円を切っていたのですよ。どうです? 松尾さんも、今のうちに1本入手されておいては?」

 そう麦野さんに言われると、思わず手を出したくなってしまいます。この方が関わると、何でも“欲しいモノ”になる・・。

ブランド界のミダス王は、手に触れるものをすべて黄金に変えてしまいます!

右:アイコンである<クロノ4>。エベラールは、伝統的にクロノグラフを得意としている。早くも1919年には、クロノグラフを発売しているのだ。4つ並んだインダイヤルのデザインは、エベラールが特許を持っている。¥943,800(税込)

左:もうひとつの代表作<8ジュール>。世界で初めて、8日間という長時間のパワーリザーブを実現した時計である。¥767,800(税込)

https://www.eberhard-co-watches.ch/ja/

 

 

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