THE TITANIC TENOR

太陽のテノール、ルチアーノ・パヴァロッティ

December 2024

イタリアのオペラ歌手、ルチアーノ・パヴァロッティは、2006年の冬季オリンピックで最後の公演を行うまでに、オペラを大衆に広める以上のことを成し遂げた。彼はクラシック音楽に人間の顔を与えたのだ。

 

 

text scott harper

 

 

Luciano Pavarotti

ルチアーノ・パヴァロッティ

1935年、イタリア・モデナ生まれのオペラ歌手(テノール)。20世紀を代表する歌い手のひとり。1961年にデビュー、美しい声とカリスマ性で一躍スターダムへ。1990年代にプラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスと「三大テノール」を結成、クラシック音楽を一般大衆に広めた。また「パヴァロッティ&フレンズ」では、多くのポップ・ミュージシャンと共演を果たした。グラミー賞も複数回受賞。2007年没。

 

 

 

 オーケストラピットを揺らすビブラート、神に祝福された声帯、心の奥底に響くテノール……。難解なクラシック音楽への扉を万人に開いたルチアーノ・パヴァロッティへの賛辞は枚挙に暇がない。

 

 2007年9月6日、パヴァロッティが膵臓がんで亡くなったとき、各界の有名人から送られたメッセージは次のようなものであった。

 

 ソプラノ歌手のカーティア・リッチャレッリは、彼のことを「プラチナの声」と呼んだ。かつてのライバル、プラシド・ドミンゴは「紛れもない音色と完璧な声域を持つ神々しい声」と讃えた。アメリカの指揮者でピアニストの故ジェイムズ・レヴァインは、「彼の歌はオペラを知っている、知らないにかかわらず、聴く者に自然と直接的に訴えかける」と回想した。

 

 パヴァロッティはオペラ歌手であると同時に人間としても愛されていた。欧州委員会委員長のジョゼ・マヌエル・バローゾは、「彼は気さくで社会的コミットメントに溢れていた」と評した。

 

 エルトン・ジョン、セリーヌ・ディオン、ブライアン・アダムスと並んで、パヴァロッティとコラボを果たしたU2のボノは「炎を吐く火山のような歌声。人生への愛に満ち満ちていた」と表現した。盟友のテノール歌手、ホセ・カレーラスは、「彼は素晴らしい男で、カリスマだった。そしてポーカーの名手でもあった」と懐かしんだ。

 

 故人を惜しむ数々の弔辞は、聞く者にヴェルディのフォルティッシモのような感動を呼び起こした。ルチアーノ・パヴァロッティの堂々たる外見の下に隠された温かさと慈悲深さは、彼の子供時代の境遇によるものかもしれない。1935年、ルチアーノはパン職人の父と葉巻工場で働く母の間に生まれた。父はアマチュアのテノール歌手であり、ふたりとも歌の素養を持っていた。

 

 家族は、第二次世界大戦によって生まれ故郷のモデナを追われ、田舎のふた部屋しかないアパートで暮らしていた。ルチアーノの世話をしていたのは主に祖母だった。9歳の頃には、地元の小さな教会の聖歌隊で父親と一緒に歌い始めた。12歳のとき、破傷風にかかり、1週間の昏睡状態に陥った。死と隣り合わせの状態から目覚めたとき、彼は神によって生かされたと感謝し、ある誓いを立てた。

 

「人生を楽しもう。太陽も、空も、木々も、すべてを楽しんで生きていこう」

 

 

イタリア・モデナのノヴィ・サド公園で開催された「Pavarotti & Friends for War Child」チャリティ・コンサートで、歌手エルトン・ジョンと共演するパヴァロッティ(1996年6月8日)。

 

 

 

 ラ・リリカ(イタリア語でオペラの意)は、戦後の労働者階級のイタリア人にとって、辛い人生を忘れさせてくれる、ひとときの慰めにして最大のエンターテインメントだった。パヴァロッティのアイドルは、ハリウッドスターのテノール、マリオ・ランツァだった。

 

「十代の頃は、彼の映画を観に行っては、家に帰って鏡に向かって彼の真似をしていました」と彼は語ったことがある。

 

 パヴァロッティは音楽だけでなくサッカーにものめり込んでいた。一時はプロのゴールキーパーを志したが、母親の説得で教師となり、小学校で2年間教鞭をとった。しかし、音楽への思いは断ち難く、最終的に声楽の道に進むことを決めた。

 

 1954年、パヴァロッティは19歳でモデナのプロ・テノール歌手アリゴ・ポーラのもとで本格的な音楽の勉強を始めた。彼の才能を見抜いたポーラが、無償でレッスンを提供してくれたのだ。

 

 1955年、ウェールズで開催された国際コンテストで1位を獲得し、パヴァロッティは初めて歌で成功を収めた。後に彼は、これが人生で最も重要な経験であり、プロの歌手になるきっかけになったと語っている。

 

 しかしここで、二度目の疾患が、若き日のパヴァロッティを襲った。今度は声帯に結節ができてしまったのだ。コンサートは「悲惨な」ものになった。彼は歌手としてのキャリアをあきらめざるを得なくなった。しかしこの決断がパヴァロッティを重荷から解き放ち、精神的なゆとりをもたらした。幸い病状は改善し、結節は消えた。自伝『マイ・オウン・ストーリー』の中で彼はこう語っている。

 

「私が学んだすべてのことが一緒になって、自然と声として出てくるようになった」

 

 

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