THE HISTORY OF CORDUROY
コーデュロイの歴史
December 2022
コーデュロイは実に魅力的な生地だ。特にロレンツォ・チフォネリのような優れたテーラーによって作られたものは、唯一無二の存在となる。語源には諸説あるが、その歴史もまた魅力的なのである。
by FREDDIE ANDERSON
映画『リプリー』(1999年)のマット・デイモンとジュード・ロウ。
綿織物であるコーデュロイの起源は、われわれが思っている以上に古い。コーデュロイと呼ばれるようになったのはいつ頃なのか、よくわかっていない。由来については、いくつかの説がある。
コーデュロイのルーツは、古代エジプトの都市アル=フスタートだ。ナイル川の近くに位置したこの都市は、丈夫な織物を生産することで知られていた。しかしその後、火災により灰燼に帰し、西暦969年に建設されたカイロがこの都市を飲み込んでエジプトの首都となった。失われたこの都市の遺産として、ファスチャン織りがある。緯糸(よこいと)には綿糸、経糸(たていと)には綿糸または羊毛糸を用いて密に織り、短い毛羽(けば)立てた丈夫な綾織物のことだ。この生地は一時期、カトリック教会と密接な関係にあった。倹約を重んじるシトー派が、司祭が身につける外衣は高価な素材ではなく、リネンやファスチャンで作らねばならないとしたためだ。
中世になると、イタリアやスペインの商人によってヨーロッパ中に広められ、保温のためにガウンやダブレット(首から腰辺りまでを覆う中世の衣装)の裏地として使用されるようになった。イングランド王ヘンリー8世(1491 – 1547年)はファスチャン織りの衣装をたくさん所有していた。その後、ドイツの哲学者フレデリック・エンゲルス(1820- 1895年)によれば、この生地は働く男たちの衣装であったという。現代のコーデュロイに連なるのは、19世紀のマンチェスターの工場労働者が着ていたとされる布地だ。
19世紀初頭、フランスの製造業者は、この生地は“王の糸(corde du roi)”であることから名づけられたと主張した。しかし、この説を支持する語源的な証拠はない。おそらく、18世紀に主に紳士服に使用された英国製の粗い毛織物である“デュロイ”に由来するのではないか。その真偽はともかく、ヨーロッパの大陸側では、この洒落た名前はあまり通じず、現在でも“マンチェスター”と呼ばれることが多い。
近現代においても、コーデュロイに対する長年の見方は変わっておらず、特別優等生的なものではない。ウェール(畝)を特徴とし、木製のパネルが張られた古めかしい図書館に似合うものという汚名を着せられてきた。綿織物が一般的なものとされてきたのは、学問の世界だけではない。農民たちは長い間、いつもほつれた綿織物を着ているものとされていた。19世紀末、パリのモンマルトルにあったキャバレー、ル・シャ・ノワールに集った芸術家たちは皆コーデュロイを着ており、朱色のコーデュロイ・ジャケットは売れない芸術家の象徴とされた。画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864 – 1901年)は、ダークなコーデュロイのワーカーズ・ジャケットに身を包んだ、歌手アリスティード・ブリュアンを描いている。コーデュロイは、かつて“貧乏人のためのベルベット”と呼ばれていたこともある。
しかし、1960年代後半に、コーデュロイは肌触りがよく、万能で耐久性のある生地として、人気が急上昇した。以降の60年で、コーデュロイはクリエイティブ業界のユニフォームとなったのだ。コーデュロイの復活には、音楽業界が大きな役割を果たした。1965年、英国商務庁長官は、ビートルズが「イギリスのコーデュロイ業界を救った」と『タイムズ』紙に語った。写真家セシル・ビートンが撮影したミック・ジャガーは、ベビーピンクの“ロックンロールな”コーデュロイを着ている。
一方、映画業界でもコーデュロイはレイキッシュな俳優たちに着用されてきた。映画『雨の中の兵隊』(1963年)のスティーブ・マックィーン、『明日に向って撃て!』(1969年)のポール・ニューマン、『夕日に向かって走れ』(1969年)のロバート・レッドフォードなどだ。最近では、マット・デイモンが『リプリー』(1999年)でコーデュロイ・ジャケットを着用している。またウェス・アンダーソン監督はコーデュロイの風変わりでクールな魅力を高めた。
かつてはやや野暮ったいものと思われてきたコーデュロイは、今では社会のあらゆるセクションで通用し、ほとんどの場面で着用できる稀有な存在となった。今年は、有名ブランドやテーラーが、こぞってコーデュロイのスーツやジャケットを推奨している。その程よいカジュアル感、リラックス感が、今風というわけだ。フランネルやツイードを差し置いて、コーデュロイをオーダーするという一手も大いにありなのである。