TENDER SCOUNDREL: JEAN-PAUL BELMONDO

ジャン=ポール・ベルモンドを偲ぶ

September 2021

ボクサーから俳優へと転身したジャン=ポール・ベルモンドは、“シネマ”という名のリングでも、存分に自分の力を発揮した。

 

 

by ED CRIPPS

 

 

 

 

 

 先日、俳優ジャン=ポール・ベルモンドがパリにて、亡くなった。88歳だった。彼はアルジェリアとシチリアにルーツを持つ、1960年代フランスを代表する俳優だ。根っからのストリートファイターであり、アクションヒーローであった。

 

 父は著名な彫刻家ポール・ベルモンドで、その息子であるジャン=ポールは、若くしてアマチュアボクサーとして無敗を誇っていた。しかし、ボクシングという商売のリスクを心配して俳優の道を歩み始めた。

 

 若き日のアラン・ドロンと共演した『黙って抱いて』(1958年)や、テレビされた『三銃士』(1959年)のダルタニアン役などを経て、ベルモンドはクロード・ソーテ監督の『墓場なき野郎ども』(1960年)でギャング役を演じた。そしてジャン・リュック・ゴダール監督の長編デビュー作『勝手にしやがれ』(1960年)で主演を務める。これが大ヒットとなった。

 

 

 

 

 

 当時、ベルモンドはこの作品がそのままお蔵入りになるような駄作ではないかと心配していたが、ハイ&ロー・カルチャーを具現化したこの映画は、文学的映画の最高峰と位置づけられ、ヌーヴェルヴァーグの記念碑的作品となった。

 

 2012年の『Sight & Sound』誌による、“映画監督が選ぶ史上最高の傑作映画”では、第11位に選ばれている。ユーモラスで、ナイーブで、行きあたりばったりで、投げやりで、貪欲で、残酷で、究極に悲劇的であった(ちなみにこのときの第1位は、小津安二郎監督の『東京物語』(1953年)だ)。

 

 

 

 

 ゴダールは、映画界に新しいやり方をもたらした。それは、スタジオ・システムを排した画期的なものだった。彼は毎朝、その日のシーンの脚本を書き、ストリートで、許可なしに撮影を敢行したのだ。映画評論家のロジャー・イーバートは、この作品を『市民ケーン』(1941年)以来、最も影響力のあるデビュー作と評価する。「この作品がなければ、『ミーン・ストリート』(1973年)も『パルプ・フィクション』(1994年)もなく、ミュージックビデオから広告まで、あらゆる映像ジャンルで“ジャンプカット”(余分な間をカットしたり、時間を飛ばす手法)が使われることはなかっただろう」。

 

 ベルモンドは、『勝手にしやがれ』のヒットにより、フランスの勢いのある作家や最高に魅力的な女優と共演する権利を得た。ジャンヌ・モローと共演した『雨のしのび逢い』(1960年)、ソフィア・ローレンとの『ふたりの女』(1960年)、クラウディア・カルディナーレとの『ビアンカ』(1961年)などである。

 

 フランスの犯罪映画の巨匠、ジャン=ピエール・メルヴィル監督は、『モラン神父』(1961年)、(『Magnet of Doom』(1963年)、『いぬ』(1963年)などでベルモンドの新たな魅力を引き出した。『気狂いピエロ』(1965年)ではゴダールと再びタッグを組み、悪夢のようなメディア社会を描いた。

 

 

 

 

 

 ニューヨーク・タイムズ紙は、ベルモンドを“故ジェラール・フィリップ以来、最も印象的な若いフランス人俳優”と称した。しかし、そのような大げさな宣伝文句とは裏腹に、ベルモンド自身はまったく気取ったところがなかった。ベッドサイドで読む本は、ロブ・グリエの小説ではなく、漫画のタンタンだった。

 

 ベルモンドがすべてのスタントを自身で行ったスパイ映画『リオの男』(1964年)が大ヒットした際、彼はフランスの知識人たちが商業的なヒットを軽蔑していると語っている。

 

「私が映画で裸になっても、それは批評家にとってはいいことだ。しかし、私がヘリコプターから飛び降りたら、彼らはひどいと思うんだ」

 

 

 

 

 

 カメラが回っていないところでは、ベルモンドは警察官を侮辱したことで裁判にかけられたり、アラン・ドロンから金銭的不正で訴えられたりもしていた。

 

 ベルモンドは、当初はフランス以外での映画出演を拒んでいたが、やがて考えを改め、英語を上達させるためにハリウッドに滞在していたこともある。『007カジノロワイヤル』(1967年)ではカメオ出演を果たしたが、残念ながらそれ以上、英語圏の映画に進出することはなかった。

 

 70年代以降は、役者としてだけでなくプロデュース業も行った。ミア・ファローと共演した『ジャン=ポール・ベルモンドの交換結婚』(1972年)などを手がけている。

 

 アクション映画や『タヒチの男』(1966年)などのコメディで人気を博していたベルモンドだが、1987年には、アレクサンドル・デュマの原作をジャンポール・サルトルが翻案した舞台『キーン 狂気と天才』に出演。フランスが誇るふたりの知の巨匠による舞台に出演したことで、舞台という世界でも一目置かれるようになった。実際にその1年後の1988年には、クロード・ルルーシュ監督の『ライオンと呼ばれた男』でセザール賞の主演男優賞を受賞している。しかし、賞のトロフィーを作ったことで賞の名に冠された彫刻家セザール・バルダッチーニが、ベルモンドの父親の作品を軽蔑したことがあったため、彼はそのトロフィーを拒絶した。

 

「生意気な目つき、カリギュラ風の鼻。彼の父親はその顔を粘土で作ったのかもしれない」

 

 

 

 

 

 ベルモンドは、2度の結婚の間に、ウルスラ・アンドレスやイタリア人女優のラウラ・アントネッリとも関係を持っていた。

 

 また、彼はレジオン・ドヌール勲章のうち、コマンドゥールにまで昇格している。これは、アルジェリアでの兵役を反映したものだ。

 

 2001年には脳梗塞を起こし、手足が不自由となるが、7年後の2009年にはヴィットリオ・デ・シーカ監督の名作『ウンベルトD』を基にした『A Man and his Dog』に主演し、悲しい男を演じている。

 

 “ロダンはそれ自身が大聖堂なのだ”と、ある同時代人がこの偉大な彫刻家について語ったことがある。ロダンが大聖堂であるならば、ベルモンドは映画界のポンピドゥー・センターである。あっけらかんとして知識人のふりをしないことが、彼をさらにミステリアスな存在とした。

 

 同世代のアラン・ドロンやジャン=ピエール・レオと比較すると、ベルモンドは最も親しみやすいが、どこか危険な人物であり、何者にも束縛されない自由な存在であり、言葉では上手く言い表せない魅力を持っていた。

 

 ベルモンドの父と同じピエ・ノワール(フランス領北アフリカ引揚者)であるアルベール・カミュは、かつて反逆者を“ノーと言う男”と定義したが、ベルモンドはその人生において、安易なレッテル、知性の見せびらかし、数々の賞、ハリウッドに対して「ノー」と言ってきた。ヴァンサン・カッセルやジャン・デュジャルダンのような今日の優れたフランス人俳優たちは、このことに十分留意すべきであろう。