SWEET VALLEY HIGHS
ロイヤル オークを生んだ敏腕経営者の野心
April 2023
どんな業界にも、時間と空間の制約を超えて業績を残す偉人がいる。時計業界では「ロイヤル オーク」開発の陰の立役者、ジョルジュ・ゴレイがそのひとりだ。
text ming liu
Georges Golay/ジョルジュ・ゴレイ
1921年、スイス・ジュウ渓谷で生まれる。ザンクトガレン大学卒業後に故郷へ戻り、1945年に会計士としてオーデマ ピゲに入社。1962年に営業担当役員となり、1966年にCEOに就任。当時世界中に販路を持っていたSSIHと契約を結び、ジェラルド・ジェンタをデザイナーに起用してロイヤル オークを開発。山あいの時計メーカーをグローバル企業へと導く。
昨今の時計ブランドのトップたちは、まるでロックスターだ。人を惹きつける力に溢れ、ブランドの魅力に負けず劣らず輝いている。例えば、2013年にオーデマ ピゲのCEOの座に就いたフランソワ-アンリ・ベナミアスは、同社を10年間で売上15億スイスフラン超の企業へと育て上げた。
実際、家族経営のブランドであるオーデマ ピゲは、粋なリーダーを擁してきたことで知られている。特に有名なのが、カリスマ社長だった故ジョルジュ・ゴレイである。彼は1972年に、ラグジュアリースポーツウォッチというジャンルの草分けといえるステンレススチール製の、「ロイヤル オーク」の誕生を導いた人物だ。想像力に富んだ起業家精神に加え、スイスのジュウ渓谷とそこで時計作りに励む人々に深い愛情を持ち、一躍業界のスターとなった。1976年に営業担当者としてゴレイに雇われ、やがてカリスマ経営者となったジャン-クロード・ビバーは、かつての上司についてこう語る。
「彼は今日の時計作りの礎を築き、ラグジュアリーウォッチに対する認識を根本から変えた最初の人物。その影響力はオーデマ ピゲにとどまらず、スイス時計業界にとって重要なものだ」
ジュラ山脈のル・ブラッシュに位置するオーデマ ピゲのマニュファクチュール。1950年頃。
愛する故郷、ジュウ渓谷
ゴレイは1921年に農家の息子としてスイス・ジュウ渓谷で誕生した。ここはジュラ山脈の麓にある時計作りの一大拠点であり、その結びつきは、1833年のジャガー・ルクルト創設にまで遡る。1875年には、ジュール=ルイ・オーデマとエドワール=オーギュスト・ピゲが、ル・ブラッシュでオーデマ ピゲを創立。フランスとの国境近く、ジュウ湖と緑深い渓谷を抱く風光明媚なこの地には、ブレゲとブランパンも拠点を構えている。
ゴレイは高校卒業後、ザンクトガレン大学で経済学を学んだ(ちなみに同大学は、スウォッチグループの現CEOニック・ハイエック・ジュニアや、IWCの前CEOで現在はブライトリングを率いるジョージ・カーンらを輩出している)。だが学業を修めると、愛してやまない故郷の町に戻り、1945年に会計士としてオーデマ ピゲに入社した。
当時のオーデマ ピゲは、たった31人の社員で年間約570本の時計を生産していた。ほぼ全員が時計職人で、その筆頭格が二代目のポール=ルイ・オーデマとポール=エドワール・ピゲである。計時技術とビジネスを巧みに融合させたふたりの手腕は、若きゴレイを魅了したのだろう。戦後の混乱期に近代化を追求していたからなおさらだ。オーデマ ピゲのヘリテージ&ミュージアム ディレクター、セバスチャン・ヴィヴァスは、ゴレイが生来好奇心に溢れ、コミュニケーションを得意としていたのは間違いないと語るが、最も重要だったのはゴレイがジュウ渓谷の生まれだったということだ。ゴレイという姓の由来は16世紀にまで遡り、結びつきが密接な地域社会においてはよく知られる存在だった。ゴレイはそういう土地で、仲間たちと学校に通い、冬の日曜日には湖でスケートをし、毎週金曜日にはトランプに興じ、ル・ブラッシュのスキージャンプ大会を楽しんだ。
1952年から2000年までル・ブラッシュで開催された国際スキー大会。この大会の推進に重要な役割を果たしたのがゴレイ(左)とロジェ・ルクルト。
ジョルジュ・ゴレイとジェラルド・ジェンタが着用していた18Kホワイトゴールド製のRef.5233。
ジョルジュ・ゴレイを理解するには、ジュウ渓谷の閉ざされた内輪の世界を理解しなければならない。人里離れた環境は魅力的であり、それ自体に存在価値がある。有り余る時間と、外界から切り離された環境は、時計作りはもちろん、自然に対する多大な情熱も育んだ。ビバーはゴレイが渓谷を愛し、讃えていたことを思い出し、こう語る。「花や木々、柔らかな草地に憩う牛たちと、彼らが生み出すミルク、バター、チーズを彼は深く愛していた」。ロイヤル オークをデザインしたジェラルド・ジェンタの妻で、かつてこの地で夫とともに工房を営んでいたイヴリン・ジェンタは、雪が降るとこの土地の人たちが大喜びしていたのを覚えている。
「下(ジュネーブ)の人たちが上ってこられないということですから。この町は本当に閉ざされた世界。時計に素晴らしい細工を施す職人たちのための場所でした」
かつてオーデマ ピゲのプロダクトマネージャーを務めていたオーレリー・ピカールも、ジュウ渓谷は魔法の土地だと語る。「世間の騒がしさから切り離されていて、まるで時間が止まったように感じる場所なんです」。
1950年代には、ゴレイは取締役会の書記を務め、身内同然の存在として一族の信頼を得ていた。そして1962年、同族以外で初めて営業担当役員の地位に就き、4年後にはCEOの座に上り詰める。それは前例のない大抜擢だった。
彼は常に野心を抱いていた。入社から20年で、オーデマ ピゲは製造面で記録的な成功を収める。35人だった社員は84人になり、時計の生産本数は10倍に増え、そして1970年には売上規模が1,000万スイスフランに近づいた。機はすっかり熟した。こうしてゴレイは、それまでにない革新的なプロジェクト=ロイヤル オークの開発に着手したのだ。
1953年、オーデマ ピゲの時計職人たち。
ゴレイは、当時最も薄型の永久カレンダー腕時計、Ref.5548の開発に重要な役割を果たした。キャリバー2120/2800は、1987年に発表されたこのモデルを含む、数多くの永久カレンダーに搭載された。
“違いがわかる現代人”のための時計
1969年、ゴレイはスイス時計工業(SSIH)と画期的な契約を結んだ。SSIHはその翌年に460万本の時計を生産し、7,000人の社員を擁することになる時計業界大手だったが、ゴレイにとって最も魅力的だったのは彼らが持つ広い販路だった。全世界に160の代理店と15,000の小売店を構えていたのだ。これが手に入れば、オーデマ ピゲは独立性を保ちながらも世界の舞台に立つことができる。
契約の1年後、オーデマ ピゲはSSIHから当時イタリアで流行していたスチール製のスポーツウォッチを、「現代の暮らしにふさわしい」時計として新たに作ることを求められた。ゴレイは1982年のインタビューで「スポーティでありながらスタイリッシュで、夜の社交の場にも昼の活動にも似合う、違いがわかる現代人にふさわしいモデルを創り出す必要があった」と振り返っている。そのために協力を求めたのは、1950年代からゴレイとの関係を深めていたデザイナーで、後に「時計界のピカソ」と呼ばれるジェラルド・ジェンタだった。“ふたりのGG”(Georges GolayとGérald Genta)には、相通ずる精神があった。ジェンタは2011年のインタビューでこう語っている。「彼と私はクルマの両輪のようなもの。意見が食い違っていたらロイヤル オークは生まれなかった。完璧に息の合ったコンビでした」。
想像してみてほしい。ふたりが同じ時計―溶けた石鹸から着想を得た、角が丸いオーデマ ピゲのRef.5233を身に着け、地元産のカマスのクリーム煮とヴァシュラン・モン・ドール、なみなみと注がれたワインというランチを取りながら、未来のデザインについて語り合う姿を。イヴリン・ジェンタはこう語る。「一種の儀式のようなものですね。ジェラルドはいつも、ゴレイとは本当に馬が合うと言っていましたから」。
ロイヤル オークを世に出すにあたっても、ゴレイの商才が光った。ゴールド製に匹敵する高値をつけたスチール製の時計というのは大きな賭けであったが、ゴレイは会計士としての経験から、決して譲ることはなかった。記録によると、オーデマ ピゲは1971年にロイヤル オークを1,000本作り(年間の総生産数がわずか5,500本だったにもかかわらず)、しかもゴレイは賢明にもロイヤル オークをシリーズ化することにした。ヒットすればさらに1,000本生産することができ、実質的には限定モデルを無限に作ることができると考えた。この考えは見事に的中した。ロイヤル オークは1972年4月15日に発売されたが、初年度で490本が売れ、単独モデルとしては1875年の創業以来の大成功となった。最初のAシリーズは最終的に生産数が2,000本近くとなり、その後B、Cシリーズ、そして1978年以降のDシリーズまで続いた。
工房の窓の向こうには、世代を超えて時計職人を刺激し続けるジュウ渓谷の牧歌的風景が広がっている。
「いつでも溶かしてしまえばいい!」
ゴレイの名はロイヤル オークとともに永遠に語り継がれるだろうが、彼の功績はこれだけではない。他にも多くの名だたる時計を世に出しており、その中には1986年の世界初の自動巻きトゥールビヨンも含まれる。
重要にもかかわらずあまり知られていない功績としては、1978年のキャリバー2120/2800が挙げられる。当時、世界で最も薄い自動巻きパーペチュアルカレンダームーブメントで、その開発はゴレイと3人の時計職人のみというトップシークレットであった。この発明は、クオーツ危機で機械式時計の製造が頭打ちになったことに対する彼らなりの抵抗だった。
ゴレイは決してリスクを厭わない。時計が売れなければ「いつでも溶かしてしまえばいい!」というのが彼の口癖で、パーペチュアルカレンダーモデルを159本生産するよう命じた。これは、1924年以降のカレンダーウォッチ総生産数に匹敵する大胆な数だったが、またしても彼の目論見は当たった。オーデマ ピゲの歴史をテーマにまとめた書籍『Audemars Piguet 20th Century Complicated Wristwatches』によると、その後の15年でパーペチュアルカレンダーモデル生産数は7,000本を超えた。
オーデマ ピゲがクオーツ危機を脱することができたのは、このような思い切った手段に出たからだろう。1984年の時点で、スイス時計の輸出本数はその10年前の8,400万本から3,000万本へと激減し、1,000にのぼる会社が倒産。スイス時計職人の3分の2が職を失っていたが、一方でオーデマ ピゲは販売数も社員も倍増、売上高は4倍増となったのだ。
成功は社員なくしてあり得ないことを知っていたゴレイは、社員を心から愛していた。ビバーはこう振り返る。「懸命に働きながら、いつも周囲へ心配りをしていた」。ゴレイは社内でゴギーというあだ名で呼ばれ、好かれていた。長く留守にした後で本社に戻るといつも、ひとりひとりと握手をしていた。ヴィヴァスはこう語る。「彼は社員全員の名前を覚えていて、いつも家族は元気か、すべて順調か、と尋ねてくれました。それが彼流のコミュニケーションだったんです」。
ゴレイの気前のよさも伝説になっている。オーデマ ピゲが創立100周年を迎えた際、電車を借り切り全社員でツェルマットの高級ホテルへ向かった。その晩、ホテルの支配人はウィスキーの請求書が膨大な額にのぼることを心配し、ゴレイにその旨を伝えた。すると葉巻を咥えた彼は、堂々たる声でこう答えた。「みんな喉が渇いているんだし、楽しんでいるんだからまあいいじゃないか」。
ゴレイは1987年に66歳で亡くなった。若すぎる気もするが、全力で生きた偉大な人物にはふさわしい寿命だったかもしれない。在職中、時計の生産数は20倍以上に増え、今日知られているグローバル企業へと姿を変えたのだ。
彼の遺したものは、オーデマ ピゲも、そして彼の愛したジュウ渓谷も凌ぐほどに大きい。イヴリン・ジェンタは訃報を受けたときのことをこう語る。「ジェラルドにとって考えたくもないことでした。あれほど偉大だった人が、もういないなんて」。これにはビバーも同感だ。「その影響力は絶大で、業界の礎になるもの。彼の存在がなければ、世界に冠たる時計ブランドの成功はあり得なかっただろう」。この言葉を聞いたら、ゴギーはさぞかし喜んだに違いない。
ジェラルド・ジェンタが1970年4月に描いたロイヤル オークのスケッチ。
1992年、ロイヤル オーク20周年記念イベントでの3代目当主ジャック=ルイ・オーデマ(左)とジェラルド・ジェンタ(右)。