MAGGIE HENRÍQUEZ INTERVIEW
世界を飛びまわるクリュッグ CEOは
ワーキンググランドマザー
January 2019
text miyako akiyama
Maggie Henríquez
マギー エンリケス
クリュッグ CEO。ベネズエラで生まれ育ち、SEとしてキャリアをスタートさせる。その後、マーケティング職に転じ、ハーバード大学に留学後、メキシコでナビスコ社CEOに就任。その後LVMHアルゼンチンを経て、2009年より現職。孫が3人いる、ワーキンググランドマザー。
1843年の創業以来、6代にわたって至高のシャンパーニュ造りを実現してきた「KRUG(クリュッグ)」。そのメゾンで2009年からCEOとして指揮をとるマギーエンリケス氏は、伝統を重んじる業界にありながらも、フランス人ではなく、そして男性でもない。
南米ベネズエラに生まれ育った少女は、ハーバード大学で学び、メキシコのナビスコ社でビスケットのマーケティングに携わった後、LVMH(モエ・ヘネシー ルイ・ヴィトン)グループでアルゼンチン産ワインの指揮をとった。クリュッグに転職するにあたっては49歳からフランス語を学び始めたという努力の人である。そんなキャリアパスは、"鉄の女"をイメージさせるが、目の前に立っていたのは意外にも笑顔のあたたかな、家庭的なムードすら漂わせる女性だった。
「私を評して、順風満帆なキャリアだとか、挫折を知らない、と思われるのでしたら、それは間違っています。私がクリュッグに参画したのはリーマンショックの真っただ中で、シャンパーニュの市場も大きな影響を受けていた時代でした。そこから立て直しをはかるわけですが、我々にとってもっとも大切な市場のひとつである日本では3.11(東日本大震災)に見舞われ、いいものを造れば売れる、という時代ではありませんでした。そして、私自身も、いままで消費財の経験は豊富だったけれど、真に贅沢なプレスティージの高い商品をどうマーケティングするかという知見がなかった。最初の数年は大いに苦しみました」
不慣れなフランスで、何をどうすればいいのかもわからなかったエンリケス氏は、とにかく周囲に質問をしまくったという。
「何しているの?」
「何のために必要なの?」
「どのようにやるの?」
1日に数百の質問をぶつけ、答えを探すなかで1冊の小さなノートに出合った。ダークチェリー色の手帳には、創業者ヨーゼフ クリュッグのシャンパーニュ造りにかける思いや技術が逐一メモされていたが、金庫に放り込まれていたため、その存在はすでに忘れ去られていたのだった。
「そこにすべての答えがありました。ラグジュアリービジネスの秘訣はその創業者の想いを理解し、起源を知ることだと。そして私のやるべきことは、その創業者の物語をお客様へ伝えていくことだと、その小さな手帳が教えてくれたのです」
そこからのエンリケス氏の躍進はめざましい。まず、KRUGの主軸ともいえるクリュッググランド・キュヴェに注目。10種以上の異なるヴィンテージ、さまざまな畑から約120種のワインをブレンドして造る「クリュッグ グランド・キュヴェ」のボトル1本1本にエディションナンバーとiDを記載。そのiDをクリュッグのウエブサイトで検索すれば、そのシャンパーニュが、どの畑のブドウでブレンドされ、どのように熟成されてきたのか、1本のボトルが辿ってきた物語をつまびらかにすることができる、というわけだ。
さらに、とあるソムリエがワインを音楽にたとえて表現していたことにインスパイアされて、クリュッグと音楽をペアリングさせてはどうかと閃いた。
「それぞれの畑のブドウがソリストだとすれば、それらをブレンドする『クリュッグ グランド・キュヴェ』はまるでシンフォニー。ヴィンテージやロゼではまた異なる音楽表現が似合うので、クリュッグのウエブサイトではそれぞれのシャンパーニュにペアリングさせる音楽を提案しています。その音楽を聴きながら味わうクリュッグは格別なんですよ」
SEとしてキャリアをスタートさせたエンリケス氏ならではのユニークなマーケティング戦略は大いに効を奏し、クリュッグラヴァ―とメゾンクリュッグはオンライン、オフラインともに多くのタッチポイントを持つことに成功した。就任後10年目を迎え、いまエンリケス氏が思うこととは何か。
「いまだからこそ言えるのは、『ラグジュアリーとはここにないものを手にしようとする力で得られるもの』だということ。私は、クリュッグの脈々と受け継がれてきた過去の素晴らしい偉業に光を照らす存在でありたいと思っています。その光を絶やさず、また照らすアプローチや側面を刷新することでプロダクトの新たな魅力が引き出されることでしょう。そのための努力は惜しまないつもりです」
こちらの目をのぞき込むようにして自らの思いを伝えるエンリケス氏に勇気づけられたような1時間だった。奇しくも、彼女はいまの私の年齢でフランス語を学び始め、KRUGでの華麗な遍歴をスタートさせたのだ。「もうすぐ50なのに」とひるむ私に、言った一言がいまも忘れられない。
“It is never late to make the dream come true.”
日本語にすれば陳腐にもみえるかもしれないから、このフレーズはあえて彼女が言ったままに置いておきたい。そしてそのあとに「必ず誰かが助けてくれますからね」と続けて、私の肩を抱いたのだった。クリュッグという偉大なシャンパーニュを世界へ知らしめ、成長させていくビジネスウーマンにして、どこか"肝っ玉かあちゃん"のようにも思えるマギー・エンリケス氏。3人の孫(!)にお土産を買って帰らなくちゃ、とワーキンググランドマザーは東京の夜の街へと出かけていった。