January 2022

THE LEGACY OF CARL F. BUCHERER

カール F. ブヘラ その精神とルーツ

創業者カール・フリードリッヒ・ブヘラ ― 彼の人物像と遺した偉業、その精神や情熱を今に伝えるブランドが、カール F. ブヘラである。
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1888年、スイス・ルツェルンに時計宝飾店として創業したブヘラの1号店の前に立つルイーズ・ブヘラ。

情熱と信念 物語は、1枚の扉から始まる。ある夫婦が、今まさに世界へ続くその扉を開け、130年以上続く歴史を紡ごうとしている。1888年、カール・フリードリッヒ・ブヘラとその妻ルイーズ・ブヘラは、スイス・ルツェルンの旧市街シュヴァネンプラッツに時計宝飾店を開いた。

 19世紀後半、ルツェルンは人々を惹きつけてやまなかった。スイス中央部、ルツェルン湖のほとりにあるこの街は、都会を離れたいと望む芸術家や王族たちの間で人気の場所になっていた。また、アメリカの文豪マーク・トウェインが繰り返し訪れて書き記し、その存在を世間に広めた街であり、ドイツの作曲家リヒャルト・ワグナーが再び気力と閃きを取り戻して、オペラ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を完成させた地でもある。ルツェルンに住む人、ルツェルンを訪れる人は、きっと人生を愛し、世の中にある最良のものを楽しむ人々だったに違いない。

 ブヘラ夫妻は、自分たちの店に迎え入れる人々の暮らしがどんなものかを理解していた。顧客はある程度の財力と教養を持つ人たちだろう、だから贅を尽くした特別な商品を提供する必要がある、と。そしてこうした人々に信頼され、愛されるサービスこそが大切であると考えた。

 彼らのビジネスモデルが一流だったのは明白だ。わずか数年で店は大成功を収め、別の店舗を開くまでになった。この時点では懐中時計と高級宝飾品のみの販売だったが、カール・フリードリッヒは腕時計の分野に大きな可能性を見いだし、スイス屈指の時計メーカーが生産する腕時計の販売に専念しようと大きく舵を切った。

左:1888年に妻とともに時計宝飾店をオープンさせたカール・フリードリッヒ・ブヘラ。右:カール・フリードリッヒの息子、エルンストとカール・エドアルド。

 カール・フリードリッヒを成功へと導いたものは、鋭いビジネスセンスだけでなく、事業に対する情熱であったに違いない。そうでなければ、あれほどの短期間に顧客から信頼を得ることはなかっただろう。さらに彼の情熱がよく表れているのは、ふたりの息子、エルンストとカール・エドアルドに、それぞれ時計職人と金細工職人としての道を歩むよう促したことだ。

 こうしてブヘラ一家全員が家業に携わることになった。そして息子兄弟は、さまざまな都市を視察した後、1913年に初めてスイス国外に一族の名を冠した屋号を確立したのだった。場所はベルリンのウンターデンリンデン47番地。ところが、ベルリンでのビジネスは長続きしなかった。1918年に起きたドイツ革命により、この地を去ることを余儀なくされたのだ。しかし息子たちは父が持っていた仕事への情熱をしっかりと受け継いでいた。彼らはこの5年の間に、顧客とのゆるぎない信頼関係を築いていた。顧客たちは直接購入するために、わざわざルツェルンを訪るようになったのだ。

1920年代、カール・エドアルドとその妻ウィルヘルミナ・ブヘラ・ヘーブは果敢にも南米チリのサンティアゴにビジネスを拡大した。

数々の挑戦とパイオニア精神 仕事への情熱と信念を糧として、一家は次々と大きな挑戦に挑んでいく。最初の腕時計が作られたのは1919年。兄弟が力を合わせて作り上げた「ラ・グラン・ダーム」は、複雑なファセットからなるレクタンギュラーケースにブレスレットを付けた、女性用腕時計だった。この挑戦にどれほどの勇気が必要だっただろう。時計といえば懐中時計という時代に、あえて腕時計の製造に賭けたのだ。

 彼らの目は正しかった。その後の10年間、スイスの時計産業に対する需要が急激に高まったのを受け、激動の1920年代には600万本を超える時計が輸出されたが、その多くは腕時計の爆発的人気によるものだった。こうして先見性がもたらした自信に背中を押され、エルンスト、カール・エドアルドと妻のウィルヘルミナ・ブヘラ・ヘーブの3人は、大西洋を越えて、遠く南米チリのサンティアゴでビジネスを展開し始めた。

アイコニックな「ラ・グラン・ダーム」は、ブヘラが初めて製造した女性用腕時計。

 ウィルヘルミナは、生まれながらのビジネスセンスに恵まれていた。彼女の自信に満ち溢れた態度はチリでも魅力を放ち、多くの時計愛好家たちを刺激したという。しかし残念なことに、彼女は1927年に亡くなってしまった。ブエノスアイレスへ向かう途中、蒸気船が沈没し、乗客314名とともに犠牲となったのだ。

 ブヘラ兄弟は悲嘆のうちにルツェルンの家族のもとへ戻った。しかし、兄弟はさらなる打撃に見舞われる。1934年、父カール・フリードリッヒ・ブヘラが亡くなったのだ。エルンストとカール・エドアルドはもちろん父の死に打ちのめされたが、同時に、残された伝統を受け継ぐのが自分たちの使命であることもよく理解していた。兄弟は互いのノウハウを持ち寄り、ブヘラの時計製作の技術を飛躍的に高めていく。

 1940年代には、ブヘラはますます複雑な時計を製造するようになった。それらは抱えていた顧客層に合わせ、ゴールドの無垢もしくはメッキを施したものだった。1940年代末には「バイコンパックス」を開発し、絶大な人気を得る。この時計は、当時上流階級の間でカーレースへの関心が高まった背景を受けて作られた。ゴールドケースにサーモンピンクの文字盤のクロノグラフである。

1940年代の工房の様子。

 1951年にブヘラ一家はカール・エドアルドを失うが、その死を悼む暇はなかった。というのも、時代が進むにつれて旅が身近なものになり、ルツェルンのブヘラのもとに世界中から顧客が訪れるようになったからだ。こうしてブヘラは、国際的なブランドとしての地位を確立していく。さらに、ジェットセッターのために初のゴールド製のワールドタイマーを発表する。ブヘラの時計は、耐磁性と耐衝撃性に優れていたため、頻繁に旅に出る人にとって
ぴったりだったのだ。

1950年代に作られた、初のワールドタイマー。9時位置のリュウズで都市の時刻を合わせる仕組み。

クロノメーターの生産に特化していた1960年代。

 また、時計愛好家たちがこぞって自動巻きの機械式時計へと移行した1950年代は、ブヘラの職人たちがブローチやネックレス、指輪などに時計をあしらうなど、その創造性を高める努力を続け、ブランド独自の芸術性を追求していった。

 1960年代になるとブヘラは、50年代に定められた厳しいクロノメーター基準をクリアした証として文字盤に特別な表示を入れることが許された。さらに、他社を買収するなどにより事業規模を拡大し、その結果、スイスのクロノメーターメーカーのトップ3入りを果たした。

現代に続く新世代 1977年、カール・エドアルドの息子ヨルグ・G・ブヘラがこの同族会社の舵取りをするリーダーの地位に就くことになった。彼は自社の価値を高めつつ新時代に対応していくため、機械式とクオーツの両方をそれぞれ等しく、厳しい基準を満たして製造していく道を選んだ。

 ヨルグ・Gのリーダーシップのもと、400年に一度の日付調整で済む時計「アルキメデス パーペチュアル カレンダー」が誕生した。しかし、複雑時計ばかりではなかった。例えばゴールド製レクタンギュラーケースのアルキメデスウォッチは、3段からなる精巧な仕上げのケースサイドを持ち、スタイルとエレガンスを意識して作られた特別な時計だ。文字盤上部で分を表示し、下部に秒を示すサブダイヤルを配置。12時位置にジャンピングアワー表示機構を備えている。

左:1977年にトップの座に就いたヨルグ・G・ブヘラ。右:2008年発表の自社製ムーブメント「CFB A1000」。ペリフェラルローター機構のシリーズ生産としては世界初。

 21世紀となってすぐ、正確には2001年、ヨルグ・G・ブヘラはブランド名を創業者の名を冠した「カール F. ブヘラ」とすべきだと決断した。祖父の情熱と精神がどれほど深く自社の根幹を成しているかを知っていたからだ。2008年には自社製ムーブメント「CFB A1000」を発表。これには世界で初めてシリーズ生産された特許取得のペリフェラルローターが組み込まれている。ムーブメント外周(ペリフェラル)を回転するリング型ローターによって、自動巻きの利便性は残しつつ、ムーブメントの様子をローターで隠すことなく鑑賞できるようにしたのだ。この構造は、多くの時計愛好家を喜ばせた。

 やがて「CFB A1000」をさらに進化させ、COSC認定のキャリバー「CFB A2000」を開発。ペリフェラルローター機構の急速な進歩は、ブランドにマニュファクチュールとしての自信を与えた。その自信は、2018年発表の「マネロ トゥールビヨン ダブルペリフェラル」で確固たるものになる。これは自社製キャリバー「CFB T3000」を搭載したモデルで、トゥールビヨンとローターの両方にペリフェラル技術を応用している。トゥールビヨンは、回転するキャリッジを外周部で支え、心臓部が宙に浮いて鼓動しているように見せている点が画期的である。

 素晴らしい革新は、過去を生かしてこそ実現できるものだ。その意味で、「ヘリテージ トゥールビヨン ダブルペリフェラル」は現代の創造物でありながら、ブランドの歴史と故郷に対する賛歌といえる。何しろケースバックから見える18Kホワイトゴールドのブリッジには、ルツェルンの街並みが精巧に彫られているのだ。ルツェルン湖には職人の手仕事による白鳥が彫られているが、その位置は限定88本のそれぞれで異なり、ひとつひとつの時計に個性を添えている。

左:1950年頃に販売開始した「バイコンパックス」。右の「ヘリテージ バイコンパックス アニュアル」のインスピレーション源となった。右:2019年発表の「ヘリテージ バイコンパックス アニュアル」。バイカラーモデルはローズシャンパンカラーの文字盤で、インスピレーションを受けたミッド・センチュリー期のモデルを彷彿とさせる。世界限定888本。自動巻き、SS×18KRGケース、41mm。¥1,496,000 Carl F. Bucherer(スイスプライムブランズ Tel.03-6226-4650)

 ここでヘリテージコレクションについて触れておこう。このコレクションは、現代のクラフツマンシップと、伝統的なウォッチメイキングへの献身を反映させた、すべて限定生産のシリーズだ。ブランド独自の自社製ムーブメントを搭載したモデルもあり、「メイド・オブ・ルツェルン」を体現。ブランドの価値と故郷への敬愛を表したものとなっている。

 カール F. ブヘラは自社のレガシーを大切に継承していくため、革新的な時計作りとは別に、アーカイブから直接インスピレーションを得たモデルも生み出している。そのひとつが、2019年発表の「ヘリテージ バイコンパックス アニュアル」である。エルンストとカール・エドアルドの兄弟により生産された先述のクロノグラフにインスピレーションを得ている。自動巻きキャリバー「CFB 1972」には、アニュアルカレンダーを搭載。12時位置のビッグデイトと4〜5時位置の月表示窓で表す。

 そして2021年のハイライトはなんといっても、「マネロ ミニッツリピーター シンフォニー」である。おそらくこれが、同社の時計製造の究極を表現したモデルだ。COSC認定のキャリバー「CFB MR3000」は、同社が誇るペリフェラルローターと、ペリフェラルトゥールビヨン、さらに第3のペリフェラル機構も備えており、“トリプルペリフェラル”となる。その第3のペリフェラル機構とは、ミニッツリピーター機構に関わるレギュレーター部分に搭載されている。これは特許申請の世界初の試みである。

 カール F. ブヘラは現在、世界的に知られるブランドとして、全世界に400を超える販売拠点を構える。同社は、今もなお創業者一族が経営する数少ない時計メーカーである。創業者の情熱と精神、獲得してきた信頼、そして先見の明を、今なお変わらぬ形で受け継いでいるのだ。それこそが長きにわたりこのブランドを守り続け、成功を支えてきたものである。これからさらに何代にもわたって、多くの可能性の扉が開かれることだろう。

左:2018年に発表された「マネロ トゥールビヨン ダブルペリフェラル」では、さらに優れたペリフェラルローターの技術が使われている。搭載するのは自社製ムーブメントの「CFB T3000」。宙に浮いて見えるトゥールビヨンと自動巻き機構の両方をペリフェラル機構とするのが特徴。しかもCOSC認定クロノメーターで、ストップセコンド機構も備える。自動巻き、18KRGケース、43mm。¥9,240,000 Carl F. Bucherer(スイスプライムブランズ Tel.03-6226-4650)
右:「ヘリテージ トゥールビヨン ダブルペリフェラル」は、ケースバックから見えるムーブメントの18Kホワイトゴールド製ブリッジに、カール F. ブヘラの故郷であるルツェルンの美しい街並みが職人の手により精巧にエングレーヴィングされている。搭載するムーブメントは自社製の「CFB T3000」。世界限定88本。自動巻き、18KRGケース、43mm。¥12,760,000 Carl F. Bucherer(スイスプライムブランズ Tel.03-6226-4650)

本記事は2022年1月25日発売号にて掲載されたものです。
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THE RAKE JAPAN EDITION issue 44

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