From Kentaro Matsuo

THE RAKE JAPAN 編集長、松尾健太郎が取材した、ベスト・ドレッサーたちの肖像。”お洒落な男”とは何か、を追求しています!

昔のお殿様は、こういった人ではなかったか!?
滝茂夫さん

Saturday, January 1st, 2022

滝茂夫さん

タキヒヨー 代表取締役会長 ナゴヤファッション協会 会長

text kentaro matsuo  photography natsuko okada

 名古屋では強面で通る、タキヒヨーの会長、滝茂夫さんのご登場です。かつて1994年から2011年までは、同社社長も務められていました。

タキヒヨーの創業は1751年、270年の歴史を持つ総合アパレル商社で、現在では東証1部に上場し、さまざまな業態の子会社を展開、グループ全体で800人余りの社員を抱えています。年間の洋服生産数は7000万着以上というから驚きです(日本人の半数が、毎年タキヒヨーの服を買っていることになりますね)

 三河湾に面する風光明媚で知られる蒲郡クラシックホテルは、かつて滝家の別荘だったところです。滝家は名古屋空港、名古屋観光ホテル、和合カントリークラブなどの設立にも関わりました(滝茂夫さんは、現在でも和合の理事、三好カントリーの理事長、そして中部ゴルフ連盟の会長を務められています)。名古屋で滝家といえば、名家中の名家です。

 

「典型的なお坊ちゃんでした。4人兄弟の末っ子で、一人だけ年が離れていたので、甘やかされて育ちました。父(タキヒヨー6代目社長)は、しょっちゅう私をホテルのレストランに連れて行ってくれたので、幼稚園児にして誰よりもナイフとフォークを使うのが上手になりました。たまに名古屋に帰省する兄たちにやきもちをやかれ、いじめられていました(笑)。小学校のときは、いつも自宅に友達が遊びに来ていました。ウチの庭はとても広かったので、ソフトボールができるのです。ベースにあたるところの芝生が剥げてしまって、よく叱られたなぁ(笑)」

 

 ところが優しかったお父様は、茂夫さんが10歳のときに他界されてしまいます。

「父については、酔っ払って、私のことを猫可愛がりしてくれたことしか覚えていません。いい面しか知らないので、ある意味幸せだと思います。父親が亡くなったあとは、贅沢も終わり、母ひとり子ひとりの普通の生活になりました」

 慶応大学入学を機に上京し、一人暮らしを始めます。

「恵比寿にあるアパートに住み始めました。トイレ付き風呂なしで、家賃は1ヶ月1万7500円だった。お金はなかったですね。昔の恵比寿は下町と山の手の中間のような場所で、小さな企業の社長さんやハイヤーの運転手さん、地方のお金持ちの二号さんなどが集まっていました。毎食お世話になる喫茶店兼スナックで常連たちから『兄ちゃん、慶応だよな? 麻雀できるかい?』とよく誘われました。しかし私は博打だけはやたらと強かった。だから実は彼らから多大なる援助を受けました。おかげでバイトはほとんどせずに済みました(笑)」

 

 住むところを恵比寿に決めた理由は、キャンパスがある日吉からも三田からも、そして遊び場だった六本木からも近かったから。

「六本木にスピードという名前の、ディスコの前身のような店があって、よくそこへ通っていました。麻生れい子さんというモデルがいて、彼女がそこの女王様だった。私などは近寄ることもできない存在で、友人たちと『あ、今日も来ている!』とか言って、遠くから見つめていたことを覚えています(笑)」

 

 大学では広告学研究会に所属されており、就職は代理店志望だったそうです。

「どうせ行くなら電通だ、と思っていました。電通主催の論文コンテストで3等を取り、15万円をもらったこともあったので、当然のように入社できると思っていました。ところが4年生のとき、麻雀に夢中になっていたら、なんと最終説明会が終わっていたのです。慌てて学生課へ行って、当時慶応の学生であれば誰でももらえた電通への学校推薦を申し込んだら『もう遅いよ、バカ』と言われました。あれには参りました(笑)」

 仕方がないので、タキヒヨーがお付き合いのあった、モビリアというインテリアの会社に就職されました。1974年のことです。

「初任給は7万7000円でした。当時大手電機メーカーの初任給が9万4000円でしたから、まぁ安かったですね。小さな会社だったので、家具の搬入も全部自分たちでやっていました。おかげで背筋が鍛えられ、それは今でもゴルフに役立っています(笑)。扱っていたのは高級応接セットとオフィス家具で、オカムラやイトーキといったところがライバルでした。机ひとつが1万5000円くらい、椅子が4〜5000円だった時代です。ところがモビリアの商品は、デスクが12万円、チェアが5万円ほどもしました。そこで製品を作っていたアメリカのスチールケース社という会社へ行って、オフィス・ランドスケープという理論を学びました。これは効率的なオフィスの設備・動線を考える学問で、『高い家具を導入しても、仕事の能率が上がるから結局は得だ』というわけです。自らのチームを持たされ、ダイエー本社、東京スタイル、ジャスコ、ワールド、鈴屋など、錚々たる会社を担当しました。気がついたら、日本におけるオフィス設計の第一人者になっていました」

 

 30歳のときには、在北京アメリカ領事館のインテリアを丸ごと任されるまでになります。

「当時はアメリカと中国は国交を樹立する直前で、大使館ではなく、まだ領事館でした。そこの仕事をするために、たったひとりで北京へ行きました。しかし、その頃の中国は今とまったく違い、外国人が電車やバスに乗ることは、ほぼ不可能でした。ホテルからタクシーに乗って目的地へ行くのですが、帰りのアシがない。タクシーの運転手に、ここで待っていて欲しいと言いたいのですが、英語などまったく通じない。困った挙げ句、紙に“待機一時間”と書いて見せたら、うんうんと頷くのです。それからも筆談には助けられました。漢字ってすごいと思いましたね(笑)」

 

 モビリアでの日々はとても充実されていたようですが、三十代半ばになり、 “実家”であるタキヒヨーに戻ることになりました。

「全然違う業種じゃないか、ですって? いや、扱っているものは違いましたが、商売の基本は同じでした。それは“モノを売るときは、ちゃんとした良いものを売るべきだ”ということです。例えば、エルメスが普通のコートを安く作って、“エルメス・セカンド”として売り出したら、絶対に売れるでしょう? しかし量販ブランドがラグジュアリーラインを作っても、そう簡単には売れない。つまり上から下に行くのはラクだけれど、下から上に行くのは大変だということです。細々とでもいいから、クオリティの高いものを作り続けることが大切なのです。あなたの雑誌もそうですよね?」

 正鵠を射た指摘にどきりとしたところで、話題を変えて、お召し物について伺うことに・・

スーツは、名古屋のビスポークテーラー粋(いき)にて作ったもの。ドラッパーズのスーパー180’Sという最高級生地が使われています。

「粋はかつてタキヒヨーで経営していた店です。店主が自分でやりたいというので“独立”となったのですが、仕入れのサポートは今でもタキヒヨーがやっています」

 さすがだと思ったのは、私の体型を一瞥して、

「松尾さんは、基本48だけど、肩周りは46くらいかな・・」と言い当てたこと。

「男性も女性も、ひと目見れば大体のサイズがわかります」

 

 ネクタイは、エトロ。

 シャツは、ミラ・ショーン(国内ライセンス品)。

「こういう変わった柄は、余ったら次の年には売ることができないので、あまり出回らないのです。したがって結構割高となります」

 なるほど、アパレルのプロならではのチョイスです。

 

 ベストは、エルメス。

「パリのエルメスで買いました。スカーフ地を使ったベストです。エルメスのお店に行ったとき衝動買いしてしまったのですが、スカーフとほとんど生地の量は同じなのに、なぜ値段が何倍もするのだろうと、後で不思議に思いました(笑)」

 

 メガネは、「名古屋でふらっと入った眼鏡屋で買った」ベルギーのテオ。

 素晴らしい時計のコレクションは、フランク ミュラーが2本とランゲ&ゾーネ。

「七宝のモデルは、フランク ミュラーが日本に入ってきたばかりの頃に買いました。青山の富士フィルムにいたときに雑誌の表紙になっていて『ああ、カッコいい』と思って調べたら、すぐ近くに店があるとわかり、そのまま買いに行ったのです。七宝の美しさに惚れ込んで購入したのですが、買ってから失敗したと思ったのは、時刻が全然わからないこと。仕方ないので、文字盤が見やすいものをもう1本買う羽目になりました(笑)。ランゲを買ったのは3〜4年前だったかな。年をとると見やすいものが一番です。おかげでオートワインダーまで買うことになって、使わないときもゼンマイを巻くようにしています」

 

 ソックスは、パリのデパート、ギャラリー・ラファイエットで贖ったもの。

「ギャラリー・ラファイエットに行く度に、派手な柄物のソックスをまとめ買いしていました。こういう柄物のソックスは、意外と日本では見つからないものです。ラファイエットにも、かつては大きなコーナーがありましたが、今では棚ふたつくらいになってしまいました。そこで、タキヒヨーでも扱いたいと思ったことがありましたが、フランスで1500〜2000円の品は、日本へ持ってくると4000円以上になってしまうので、さすがに断念しました」

 シューズは、どちらもジョンロブ。履かれている方が既製品で、物撮りしたほうがオーダーメイドのロンドンロブです。華奢なシルエットが美しい。

「正統派の靴としてはジョンロブが最高だろうと思い、まず既製品を試してみました。それがとてもよかったので、オーダーメイドも一足贖いました。オーダーメイドは高いですわ(笑)」

 さて、話を滝さんの人生に戻すと、タキヒヨーに入って8年後、1994年に社長に就任なさり、その後17年にわたって会社の舵取りを任されます。その間、94年名古屋証券取引所上場、2001年東京証券取引所2部上場、ディスニーのマスターライセンシー契約獲得、そして2005年東証1部上場と、着実に成果に結び付けて来られました。

 

 2011年、59歳の若さで社長を退任。

「今度はお前らが稼ぐ番だ。俺は使う側に回るヨ」とさらりと仰り、会長となられました。しかし「当たり前のことを、当たり前にしよう」、「投げたボールは、すぐに相手に投げ返そう」などの“茂夫イズム”は、今でも脈々と受け継がれています。

 

 現在でも、名古屋財界における存在感は大きく、その肩書きは100以上もあるといいます。例えば・・

「なぜか愛知県少林寺拳法連盟の会長を頼まれてしまいました。『ちょっとだけですよ』とお引き受けしたら、すぐにコロナになってしまって、いまだに大会には参加させて頂いておりません(笑)」

 まさに人徳のなせる技といえましょう。

 

「東京だと異業種の方とはなかなか出会えませんが、名古屋にはいろいろな財界人が集まる場所があります。そういったところでは、タキヒヨーの持つ270年にわたる信用は、大きなものがあるのです。たまたま老舗の家に生まれた自分は、今ではとても運が良かったと思っています。おかげ様で運良く幸せにさせてもらっている私自身に対して、これからどうにかしたいという欲はありません。それより会社とそこで働く人々、会社をとりまく人々に、幸せになってもらいたいと思っています」

 

 今回滝さんのお話を聞いていて、昔のお殿様というのは、こういった人々ではなかったのかなという印象を受けました。鷹揚にしてユーモアに溢れ、自らを省みず、大義のために働く。時代劇では悪行を働いた大名がクローズアップされがちですが、大半は清廉潔白で、民のことを第一に考えていたそうです。そうでなければ、長く続くはずがありません。

 1603年に徳川家康が開いた江戸幕府は、明治改元まで265年間続きました。そう考えると、タキヒヨーの270年間という歴史が、いかにすごいものであるかがわかりますね。滝茂夫さんは、そんな素晴らしい歴史と文化を、自ら体現なさっている人物です。

 

 

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