何もない田舎から出て、大御所スタイリストに
大久保篤志さん
Sunday, September 10th, 2017
大久保篤志さん
スタイリスト、ザ スタイリスト ジャパン®ディレクター
text kentaro matsuo photography natsuko okada
たぶん日本で一番有名なメンズのスタイリスト、大久保篤志さんのご登場です。私が初めて大久保さんとお仕事をさせて頂いたのは、今から20年ほど前、大久保さんが雑誌メンズ・イーエックスの表紙を担当されていた時のことです。
当時から、大久保さんは“大御所”と呼ばれていて、ペーペー編集者だった私は大いに緊張したものです。それから20年間、ずっとフロントランナーとして走り続け、今でも業界を代表するスタイリストなのですから、大したものです。
ここ10年ほどは、ご自身のブランド“ザ スタイリスト ジャパン®”のディレクターとしても活躍されています。
「最初は1着のボタンダウン・シャツから始まった。自分が着たいと思えるような分厚い生地のものがなかったから、作っちゃったんだ」
それから年を追うごとにコレクションは広がり、今ではトータルにコレクションを展開するブランドに成長しました。
帽子はボルサリーノ×ザ スタイリスト ジャパン®のダブルネーム。
メガネも白山眼鏡店×ザ スタイリスト ジャパン®。
ベルトもHTC×ザ スタイリスト ジャパン®。
コラボ商品は他にも、キジマ タカユキとの帽子や、ハリウッド ランチマーケットとのバンダナなどがあります。
「ウチはダブルネームの商品が多いけど、たいてい個人的な繋がりでやってもらっているよ」
大久保さんのキャリアから考えて、そのネットワークは業界随一でしょう。
シャルはダブル アール エル。
ネクタイは50年代のヴィンテージ。
ホースシュー・リングはテンダーロイン。
時計はゴールドのロレックスGMTマスター。1978年のもので、ワンミニッツギャラリーで入手されました。
シューズはオールデンのコードバン・ブーツ。
「靴はボリュームのあるヤツが好きで、オールデン、トリッカーズ、ヒロシツボウチしか履かない。これはもう10年は履いているかなぁ」
相変わらず流石のコーディネイトです。撮影はご自身の仕事場にて行ったのですが、30年間にわたって集めた、数百着ものワードローブは圧巻でした。
しかしそんな大久保さんも、かつてはたった1着の服を入手するのにも、苦労していた時代があったとか。
「俺が生まれたのは、北海道の枝幸町歌登というところ。旭川まで出るのに3時間もかかる田舎で、とにかく何もなかった。中高生の頃はロックが大好きで、ストーンズから始まって、ディープパープルやツェッペリン、ピンクフロイドなんかを聞いていた。ラジオで曲をチェックして、旭川からレコードを取り寄せて、雑誌『ミュージックライフ』で写真を見るんだ。それらを照らし合わせて『ああ、この人たちは、こんな格好をしているんだ』って初めてわかるんだよ。ネット時代じゃ、考えられないよな(笑)」
そして満を持しての上京ですが・・
「ロンドンブーツにパッチワークのデニムパンツを履いて、得意顔で東京にやって来たんだが、もうすっかり時代遅れだった(笑)」
その後、原宿のカジュアルショップでバイトしたり、某大手アパレルへ就職したりしますが、
「まったく会社員には向いていなかった」とわかり1年半で挫折。
そんな時に、人生の転機が訪れます。
「友人の紹介で、ポパイのファッション・ディレクターだった北村勝彦さんのアシスタントになったんだ。最初はポパイ、その後アンアン。どちらも絶頂期で、スタイリストの仕事は本当に楽しかった。1980年代はいい時代で、好きなことがなんでも出来た」
その頃作られた『スタイリストの本』という本を見せて頂きましたが、スタイリスト自らが企画・キャスティング・撮影のすべてを任されるという一冊で、当時の自由闊達とした雑誌業界の雰囲気が伝わって来るようでした。
「仕事が終わると、いつもトゥーリア(かつて六本木にあったディスコ)に行っていた。まるでパトロールのように(笑)。必ず友人がいるので、それから一晩中のハシゴの始まり。最後はレッドシューズが多かったな。とにかくよく遊んだよ」
スタイリストになってからの30余年間は、ずっと突っ走って来たと語る大久保さん。今では日本を代表するファッショニスタとして、確固たる地位を築かれましたが、その基本は変わっていないといいます。
「音楽とファッション、今でもそれしかない。本を見ながらあれこれチェックして、レコードを買って、それを聞きながら洋服を作っているときが、最高に幸せなんだ。考えてみるとやっていることは、北海道にいた頃と何にも変わってないな(笑)」
このひたむきさと変わらない姿勢が、フロントランナーで居続けられる秘密なのでしょう。