日本より、イタリアで有名な日本人
板倉赫さん
Thursday, May 25th, 2017
板倉赫さん
KAKUコーポレーション代表、ファッション・プロデューサー
text kentaro matsuo
日本ではあまり知られていないけれど、欧州では広く知られている日本人がいます。例えばGPライダーの原田哲也さんなどはその代表格で、イタリアで「最も有名な日本人は?」と聞くと、皆「ハラダ、ハラダ!」と叫ぶそうです。
ではファッション界では誰かといえば、もしかしたら今回ご登場の、板倉赫(かく)さんかも知れません。
ミラノ在住の板倉さんは、1983年のマーレ・モーダ・サンレモでの受賞を皮切りに、四半世紀以上にも及ぶイタリアでのデザイン活動の中で、さまざまな受賞歴を誇ります。特に権威ある“アルテ・エ・イマジネ・ネル・モンド2005(世界の芸術とイメージ賞)”の受賞は、日本人初の快挙でした。
最近では、バーニーズ ニューヨークのコンサルタントや、雑誌MADUROで連載をなさっているので、日本での知名度も急上昇といったところでしょうか。
さてそんな板倉さんは、デザイナーなのかというと、これがちょっと違っていて、本人曰く「サルトであり、モデリストであり、MDであり、スティリスタであり、ファッション・プロデューサーなのです」とのこと。とにかくファッションに関連する事を手がけてきています。装いにも、そんな多様性が表れています。
ジャケットは、板倉さんのマエストロでもあるブルーノ・ディ・アンジェリス。1981年頃に仕立てた思い出のある一着です。なんと30年以上も前の1着ですが、まったく古さを感じさせません。
「ブルーノは私のマエストロだったのです。彼はフランコ・プリンツィバァリーの兄弟子で、その先生はマリオ・ドンニーニ。さらにその先生がドメニコ・カラチェニです」ということで、そのスジに詳しい人なら、思わずひれ伏してしまうような系譜に連なっています。
シャツはミラノのザ・ストアで入手したジャンネット。
「シャツだけは新しいものを買います。すぐに黄ばんでしまうからね」
チーフはロダ。
メガネはミラノのマルケーゼという工房兼小売店で買ったもの。
パンツはやはりミラノのクランという店で買ったモノですが、なんと日本製だったそうです。
「イタリア人の店員が『ズボン、ズボン』というから何だろうと思ったら、実は日本で作られたものでした(笑)。でも履きやすい。ブランド名は“丈”と書いてありますね」
ベルトはオルチアーニ。
時計はフランク・ミュラーのトノウ カーベックス。1995年に入手されました。
カードケースはイタリアのフォンタナ社製で、自らデザインし、自らの名を冠した”KAKU”コレクションのもの。
シューズはジェイエム ウエストンで、購入したのは、やはり30年以上前の1983年だったそうです。
「いいものは古くなっても、ずっと履けるし着られます」
さまざまな国で、さまざまな年代に作られたものを組み合わせているのに、完璧にまとまっているのは流石です。
「買い物はミラノですることが多いですね。モノマルカ(=ひとつのブランドしか置いていない店)にはほとんど行きません。行きつけの店はセレクトショップで、店員たちと相談しながら洋服を選びます。彼らは私の好みとワードローブを把握していて、次々とおすすめを持ってきてくれます。そして『コレにはコレ、アレにはアレ』とコーディネイトの提案も忘れない。ジョークを交えつつ、服選びをしていると、すぐに3〜4時間は経ってしまいます。お直しも細かくする。例えばパンツの裾を上げるのも、裾幅が変わらないよう、膝下全体で詰める。しかも来店しているのは、ある程度の経験を積んだ大人ばかりで、若者はいないのです。こういう文化は日本にはないですね」
板倉さんの父上はテーラーで、小さい頃から「布キレにまみれて育った」そうです。アパレルメーカーにデザイナーとして務めた後、1973年に初めて訪れたイタリアで、人生の転機を迎えました。
「ミラノ、そしてフィレンツェへ行きました。フィレンツェでは、ちょうど第1回目のピッティをやっていましたね。そしてそこで見た本場の男の装いに、衝撃を受けたのです。日本とはまさに“月とスッポン”ほど違いました。遊園地へ行った子供が夢中になるのと同じように、イタリアという国に夢中になりました。私はイタリアに一目惚れしてしまったのです」
以来40数年、いまでもその情熱は続いているようです。
「私はいわゆる団塊の世代なのですが、同輩が定年を迎えて輝きを失っていくなか、私は年齢を重ねるごとに元気になっています。とにかく毎日がチャレンジです」
ファッションは“ライフ”と言い切る板倉さん。こんなにカッコいい先輩に出会えるからこそ、私も編集者稼業はやめられませんね。