‘THIS WAS THE TURNING POINT... WE HAD TO CLEAN UP’

ブルガリ — ウォッチメイキングの軌跡

February 2024

ブルガリのウォッチメイキングに関する唯一の公認歴史書『Beyond Time』が出版された。一族の末裔であるジャンニ・ブルガリ氏は、高級時計製造への大胆な移行がいかにブランドを成長させたかを語る。

 

 

text robin swithinbank

 

 

1970年代、ローマのジュエラーだったブルガリを大胆に戦略を持って時計業界へ進出させたジャンニ・ブルガリ氏。ローマ・コンドッティ通りにあるブルガリ本店にて。photography: FIORENZO NICCOLI

 

 

 

 ジャンニ・ブルガリ氏は非凡な人生を歩んできた。彼はブルガリ一族の末裔であり、実業家であり、国際的な社交界の名士として知られる。エリザベス・テイラーやジーナ・ロロブリジーダの親友であり、パイロット、レーシングドライバー、工業デザイナー、コレクター、そしてブルガリ・タイム社の生みの親でもある。ギリシャ人の創業者、ソティリオ・ブルガリの孫にあたる彼が、インタビューを受けることはほとんどない─。

 

 彼とローマで会ったのは、季節外れなほど暖かい1月の日だった。ジャンニ氏は私を丘の上にある広大なアパートメントに招き入れてくれた。居間というより、美術館やギャラリーのようだ。柱と大きな窓の間には、本、絵画、彫刻、大理石、ブロンズ像、陶器、花瓶など、数え切れないほどの品々が配置されている。私たちが座っているウォールナットのアールデコ調のアームチェアは、おそらく30年ほど前に彼のポートレートで見たものと同じだ。ここは見事なまでに収集された宝庫。20世紀半ばから後半にかけてのイタリアの荘厳な香りが漂っている。

 

 1970年代、ローマのこのジュエラーを時計製造に参入させたのが、まさしく彼である。家業のビジネスを、権威ある分野に進出させるため決断した。そしてそれは過去半世紀の時計製造の歴史における最高のサクセスストーリーへと導いた。ぜひこの話を彼に聞いてみたかった。

 

 

2023年9月にアスリーヌ社から出版された『Beyond Time』。映画監督、スポーツ選手、専門家、指揮者といった著名人たちからの寄稿による、前例のない編集アプローチによって構成。全8章、300ページに及ぶ。

 

 

 

 彼が経営を引き継ぐ以前の歴史において、文字盤にブルガリの名を冠した時計は、彼の父ジョルジオが取引を行ったオーデマ ピゲやヴァシュロン・コンスタンタンといったメーカーとのダブルネームのみだった。しかしこれは彼が家業に携わるよりずっと昔のことだった。ジャンニ氏によると、時計業界と初めて接触したのは1960年代。彼がピアジェの代表者と出会い、コンドッティ通りにあるブルガリの本店でピアジェの時計を販売することになったのだ。ジャンニ氏は語る。

 

「当時、ピアジェはそれほど有名なブランドではありませんでした。でも、ピアジェの時計を店に並べることにしました。ブルガリのイメージを損なうとして、叔父からは強く反対されたのですが」

 

 創業者ソティリオがコンドッティ通りに店を移転させたのは、1905年。このときから息子のジョルジオとコンスタンティノを経営に参画させた。1932年にソティリオが亡くなった後も、ソティリオの影響力は会社に及んでいた。1960年代、ジョルジオとコンスタンティノは既に年老いていたが、この頃のブルガリは、ジャンニ氏曰く「旧時代の精神」を保っていた。叔父のコンスタンティノにおいては広告戦略についても反対し、嫌っていた。ブルガリは上流社会だけが知るブランドとして存在し、そのような人々だけにハイジュエリーや希少な宝石、アンティークを提供していたのだ。ジャンニ氏は次のように回想する。

 

「もともとブルガリといえば、翡翠、銀、スナッフ・ボックス(嗅ぎタバコ入れ)でした。ジュエリーを重要視するようになったのは、売り上げが増えたからです。大きな宝石を売っていましたが、安価なジュエリーはありませんでした」

 

 

 

2015年の「ブルガリ・ローマ フィニッシモ」。photography: BARRELLA/STUDIO ORIZZONTE GALLERY

 

 

 

 ジョルジオは1966年に、コンスタンティノは1973年に亡くなった。ジャンニ氏はジョルジオの長男として、会社の会長兼最高経営責任者となった。彼がリーダーシップを発揮すると会社は国際的に拡大し、パリ、ニューヨーク、モンテカルロ、ジュネーブに店舗をオープンさせた。しかし、ブルガリをローマの伝統的なジュエラーから国際的なラグジュアリーブランドへと変貌させるためには、商品ラインナップを拡大する必要があるとジャンニ氏は感じていた。彼は旅好きで、世界を知り尽くしていた。流暢なフランス語と英語を話し、世界的な経済不況の影響を目の当たりにしてきた。この10年間の通貨変動と金価格の高騰は成長を阻害し、新しい世代の潜在顧客が高級品に投資する意欲を失ってしまう─行動的で影響力を増していた若いイタリア人ビジネスマンにとっては当然の懸念だった。同時に、当時はデジタル時代の幕開けであり、エレクトロニクスは既に現代生活の隅々まで急速に進出しつつあった。

 

 そんな中、1975年にジャンニ氏は誘拐されてしまう。家族が200万ドルの身代金を支払って身柄が確保されるまで、30日間監禁されていた。その間は、彼曰く「退屈だった」そうだが、ジョン・ポール・ゲティ3世のように以降の人生を台無しにすることもある中、彼にとっては再び活力を取り戻す経験となった。

 

「その出来事をきっかけに私は成長できたんです。以前から考えは持っていましたが、ブルガリをまったく違う方向に持っていかなければならないと感じました」

 

 彼は1カ月間休業し、在庫の棚卸しや、混乱した財務状況の整理を行い、堅実な基盤を築いて、見込みのある事業に着手するための足場を固めた。

 

「ターニングポイントだったと思います。クリーンにすることはとても重要でした」

 

 このような背景のもと、ジャンニ氏率いるブルガリは、時計業界への第一歩を踏み出した。1作目となる「ブルガリ・ローマ」は、直径30mmのゴールド製ケースを持つ、小型のラウンドウォッチだった。液晶ディスプレイ(LCD)のデジタル表示は、麻と革で作られたシンプルなコードストラップにセットされ、洗練されたクールさを演出していた。フラットなケースの正面に社名「BVLGARI」と時計名「ROMA」の文字を刻む大胆なデザイン手法をとった。しかし、この時計は非売品だった。100本が製造され、ブルガリの優良顧客に贈られたのだ。このニュースは、ジャンニ氏の予想以上に早く、遠く広まった。この時計を手にできなかった顧客たちが、時計を欲しがるようになったのだ。手に入らない、という感覚ほど物欲を刺激するものはない。

 

 

1975年に100本限定で製造された「ブルガリ・ローマ」は、ゴールド製のデジタルウォッチ。一部の顧客にのみ贈呈されたレア商品。photography: BARRELLA/STUDIO ORIZZONTE GALLERY

 

 

 

 そこで翌年、ジャンニ氏は「ローマ」のアナログ版を発表した。この時計もゴールド製で、ベゼルにはやはりブランド名と時計名が刻まれた。内部には機械式ムーブメントを搭載し、ブラックのレザーストラップを備えていた。ブラックの文字盤には、12と6の位置のアラビア数字と、極細のインデックスを配していた(これはやがてブルガリのシグネチャースタイルとして継承された)。ケース径は約30mm。現代の男性用腕時計から考えると非常に小さく感じられるが、当時はほとんど気にされなかった。

 

「男性用と女性用の時計にそれほど大きな違いはありませんでした。時計の最大の革命は1970年代と1980年代に始まりました。男性用に作られた時計を、女性が身に着けるようになったのです」

 

 ジャンニ氏にとっては、時計という商材がブルガリをどう導くかということが重要だった。父親から学んだジュエリーのビジネスについて、彼はこう言及する。

 

「70年代初頭からこのビジネスに疑問を抱いていました。ブルガリを信じていませんでした。コンドッティ通りに店を構え、近寄りがたく、威圧的でした」

 

 ジャンニ氏が必要と感じていたのは、ブルガリに足を踏み入れようとする顧客に対して、敷居の高さを打ち砕くような商品。それが時計だったのかもしれない。

 

「実は時計自体にあまり興味はなかったんです。でも、ブルガリの中で手に取りやすい、認知されやすい商品になるかもしれない。人々が店に足を踏み入れやすくなるかもしれない。そう思ったんです」

 

 

1990年頃のキャンペーンに登場した、イエローゴールド×レザーストラップのクロノグラフ。photography:BULGARI HISTORICAL ARCHIVE

 

 

 

 時計はすぐに成功したわけではなかったが、ジャンニ氏が自分の考えをさらに推し進めるには十分なものだった。1977年、彼は「ブルガリ・ブルガリ」を発表。ブルガリのクリエイティブ精神を取り入れた時計であることを強調するためのこの名前は、意図的なマーケティング戦略で、とてもセンスある一手だった。「ブルガリ・ローマ」と同様、ベゼルに名前が刻まれているが、文字の間隔は均等で、文字がつながっていくよう配置されている。古代ローマのコインを模したデザインは、以前にもブルガリ家がジュエリーに取り入れていた歴史的モチーフだった。

 

 この時計もまた、機械式ムーブメントが搭載された。それもスイス製のムーブメントだ。世界を見てきたジャンニ氏は、自分の作る時計が知識層の間で信頼性を保つには、スイス製でなければならないことを十分承知していたのだ。そして1982年、彼はジュネーブにブルガリ・タイム社を設立。時計のほか、シルバーとゴールドのペンやライターも製造した。

 

「イタリアで時計を作ることは考えられませんでした。スイス製は、特に輸出する場合、時計を信頼あるものにします」

 

「ブルガリ・ブルガリ」は、スイスのムーブメントを搭載したイタリアンウォッチとして、大ヒットとなった。

 

「宣伝しなくても、すぐに成功しました。高価な時計ではなかったからです。その狙いは、手に取りやすく、親しみやすい、ブランドアンバサダーのような存在として世界に広めることでした。高級ブランドとして認識されていたブルガリに足を踏み入れることを躊躇していた人々を、引き寄せることができたんです」

 

 ここでおなじみのフレーズを口にする。

 

「でも、それだけなんです」

「私の功績は、『ブルガリ・ブルガリ』を作ったことだけです」

 

 彼はそれを誇りに思うのだろうか?

 

「はい、賢い選択でした。適切な時に適切なことをしました。それはブルガリとともに永遠に残るでしょう」

 

 

 

 

ブルガリの現在を象徴する定番&最新モデル

 

ブルガリ ウォッチメイキングの歴史を継承した2023年発表の「ブルガリ アルミニウム クロノグラフ」。アルミニウムケースとラバーストラップを採用した定番ウォッチが、2023年にリニューアル。ケース径は41mmとなり、新ムーブメントB381を搭載。オールブラックと、写真のホワイト文字盤×ブラックのサブダイヤルの2種類を展開。自動巻き、アルミニウムケース、41mm。photography: MARCO GAZZA

 

 

古代ローマのコインにインスピレーションを得て、ベゼルにブランド名のダブルロゴを配した「ブルガリ・ブルガリ」。時を超えても褪せることのないデザインは、1977年以来、定番ウォッチとして受け継がれる。ホワイトマザー・オブ・パールのダイヤルにダイヤモンドのインデックス。クオーツ、SS×18KPGケース、23mm。

 

 

リアルドライビングシミュレーター「グランツーリスモ」とのコラボモデル。ブラックとイエローを基調としたアンスラサイトダイヤルには、ゲーム内でスピードメーターやシフトインジケーターに使用されるオリジナルフォントを採用。また、外周にはタキメーターを搭載している。アルミニウム製の収納ケースが付属。世界限定1200本。自動巻き、アルミニウムケース、41mm。