RAKISH ICONS: THE BRIGHT YOUNG THINGS
レイキッシュ・アイコン:ザ・ブライト・ヤング・シングス
November 2022
1920年代のロンドンで、ボヘミアンや貴族の社交界から集まったグループは、英国のタブロイド紙によって“ザ・ブライト・ヤング・シングス”、あるいは“ザ・ブライト・ヤング・ピープル”と呼ばれた。派手なパーティ、ロマンチックな逃避行、そしてアメリカ文化への傾倒は、大衆の想像力をかき立てた。彼らの中には、後に偉大な芸術家や著述家になった者も多かった。
by CHRIS COTONOU
ウィルスフォードでの“ザ・ブライト・ヤング・シングス”(1927年)。
“ザ・ブライト・ヤング・シングス(The Bright Young Things)”、あるいは“ザ・ブライト・ヤング・ピープル”とは、1920年代のロンドンのボヘミアン的だった若い貴族やソーシャライツのグループに対してタブロイド紙がつけたニックネームである。彼らは派手な仮装パーティを開き、夜のロンドンで凝った宝探しをし、大酒飲みやドラッグを使う者もいた。
作家のナンシー・ミットフォード、ジョン・ベッチェマン、イーヴリン・ウォー、そして有名な写真家セシル・ビートン(彼のキャリアはこれらの人々の記録から始まった)などが、最も影響力のあるメンバーだった。贅沢なライフスタイルと自由奔放な生き方は、今日でもクリエイティブな世界に影響を与え続けている。そのことは現在のロンドン、メイフェアやメリルボーンを見れば一目瞭然だ。ジェットセッターが現れる以前の人々が通った会員制クラブやホテルのバーは、今でも現代のセレブリティを惹きつけている。コンノート、リッツ、サボイといったホテルで、彼らはシャンパンを片手に退廃的な夜を過ごした。人々はその存在に魅了されたのだ。
彼らのお遊びのひとつは、ロンドンで深夜に行われる宝探しであった。タブロイド紙の見出しにはこう書かれていた。
“手がかりを追うのは、若者のための最新の暇つぶし”
“ミステリー解決のためのソサエティが結成された”
ザ・ブライト・ヤング・シングスは、反体制的なところも魅力的だった。著述家J.B.プリーストリーなどの社会主義者、美学者ハロルド・アクトンなどの同性愛者、フェミニスト思想家、女優ブレンダ・ディーン=ポールに代表される麻薬常用者などが入り混じり、第一次大戦後の英国に、新しいムードとアイデアを持ち込んでいた。
彼らは、デカダン的で、非合法な行いもしていたが、同時に、時代における最も創造的な傑作を生み出し、後世に多大なる影響を与えた。
詩人ジョン・ベッチェマンは、後に英国王室によって桂冠詩人に任ぜられた。セシル・ビートンは、王室御用達の写真家となり、映画『マイ・フェア・レディ』(1965年)の衣装デザインでアカデミー賞を受賞した。ノエル・カワードは、英国を代表する俳優となった。ナンシー・ミットフォードとイーヴリン・ウォーの小説は、今日でも愛され、読み継がれている。エドワード・バラは、絵画を通して黒人社会とジャズ文化にスポットを当てた。
また、ファッショナブルでパーティ好きのシーラ・チザムのように、当時はスキャンダラスだと思われていたこと(チザムの場合は複数回の結婚や不倫)を理由に、いち早く“イットガール”と呼ばれるようになった人たちもいた。
1920年代のパーティでは、フォーマルなドレスコードが奨励されていた。しかし、ザ・ブライト・ヤング・シングスはカジュアルで挑発的な服装を好んでいた。当時、英国のファッションはまだまだ保守的だった。派手な格好はアメリカ人がやるもの、あるいは変わったダンディズムの一種と考えられていた。しかし、ザ・ブライト・ヤング・シングスのパーティでは、女装さえ当たり前だった。男性は化粧をしていた。
彼らのファッションはアメリカに感化されたものだった。当時のアメリカは、ダンス、ポップミュージック、高層ビルで溢れ、未来と進歩を象徴する国だったのだ。フラッパースタイルと鮮やかなカラーのテーラリングが彼らのトレードマークだったが、サヴィル・ロウ仕立てで、より貴族的な英国の装いになっていた。ザ・ブライト・ヤング・シングスは自由な物質主義の象徴だった。
しかし、1930年代の大量失業時代には衰退し、第二次世界大戦が近づくと、富の誇示は嫌われるようになり、完全に姿を消した。1931年に行われたレッド&ホワイト・パーティでは、小道具も食べ物も衣装もすべて紅白でなければならなかった。だがこのような退廃的なイベントは、もはや持て囃されなくなり、マスコミはこぞって彼らを非難した。この時代の変化は、イーヴリン・ウォーの自伝的著書『卑しい肉体』に綴られている。ウォーの物語が示すように、良いものは永遠に続かない。
今にして思えば、ザ・ブライト・ヤング・シングスは英国初のセレブリティであり、スキャンダルにまみれながらも、芸術や文化に貢献した人たちであった。彼らは快楽を追求し、好きな人を愛し、好きなように考えることができるエピキュリアン的なライフスタイルを貫いた。彼らの時代はふたつの大戦に挟まれ、大恐慌、社会主義、ファシズムといった激変の中にあった。そんな状況において、バーやホテル、クラブで自由な聖域を開拓し、現代に続くロンドン・シーンの礎(いしずえ)を作った彼らは、アイコニックだが、誤解されたグループであった。その遺産は今もなお輝き続けている。