INTERVIEW WITH HIS EXCELLENCY GIANLUIGI BENEDETTI, AMBASSADOR OF ITALY
お洒落の国から来た大使
June 2025

Gianluigi Benedetti / ジャンルイジ・ベネデッティ1959年、ローマ生まれ。ローマ・ラ・サピエンツァ大学を最優等の成績で卒業し、1985年にイタリア外務省に入省。以降、イタリア、アメリカ、イスラエルをはじめ国内外の要職を歴任。2021年にイタリア共和国功労勲章(OMRI)グランデ・ウフィチャーレ章を受勲し、同年より駐日イタリア大使として着任した。
忠臣蔵で有名な赤穂浪士が切腹したのは、イタリア大使館においてであった。「本当かね?」と思う方も多いだろう。これが本当なのだ。
1702年、主君の無念を晴らすべく、大石内蔵助ら47人の浪士たちが吉良上野介邸へ討ち入った。吉良の首を討ち取った浪士たちは、4つのグループに分けられ、4名の大名屋敷に預けられて幕府による沙汰を待った。そのうちの10人が滞在していたのが松山藩松平家の中屋敷(現在の港区三田二丁目=イタリア大使館の所在地)だったのだ。10人は切腹を申し付けられ、屋敷の庭先にて見事な最期を遂げたという。
「それがちょうど、今われわれが座っている、このあたりだったのです」
そこは現在、美しい日本庭園を望むガラス窓に囲まれた、モダンなSalone del Lago(池の間)となっていた。ジェスチャーを交えながら、赤穂浪士の物語を熱く語るのは、駐日イタリア大使ジャンルイジ・ベネデッティ閣下である。日本の歴史と文化に対する造詣は、専門家も舌を巻くほどだ。名門ローマ・ラ・サピエンツァ大学を首席で卒業した頭脳の持ち主だ。
「祖父がカラビエーリの士官で外交伝書使として長年働いていたので、幼い頃から、よく海外の話を聞かされて育ちました。大学生の頃に住んでいたローマのマンションには、日本の高名な画家・高橋秀氏(1930年~、文化功労者)も居を構えていました。これで日本に興味を持ち、日本語を学び始めました」

大使公邸1階のSalone delLago(池の間)は3面が全面ガラス窓になっており、庭園を眺めることができる。木材のはめ込みによる線模様の入ったトラバーチンの床の上に置かれたグリーンのソファは伊UniFor-モルテーニ社が、最近オリジナルを忠実に復元したものだという。
イタリア外務省に入省すると、日本行きを切望し、1987年に初来日が叶った。
「80年代の日本はバブル経済の真っ只中で、とにかく景気がいいという印象を受けました。あらゆるテクノロジーがとても進んでいて、目を丸くしましたね」
日本には4年間赴任していた。当時の日本人のファッションにはどんな印象を受けましたか? との問いには、「日本でイタリア・ブランドがブームになるのは1990年代からでしたので、80年代後半ではイタリアの服は今のようにポピュラーではありませんでした。しかし当時から、日本人とイタリア人のスタイルには共通点があると感じていました。それは派手なものを避け、質のよいものを好むというところです。むやみにトレンドを追わず、いいものを長く着ようという姿勢も同じでした。あと当時は、まだキモノを着ている人を多く見かけましたね。人々がまとっているキモノを注意深く観察しましたが、ディテールに手が込んでいて、それは素晴らしいものでした」。
1991年に日本を離れ、その後、アメリカ赴任、駐イスラエル大使などを歴任。2021年、30年ぶりに駐日イタリア大使として懐かしい日本へ戻ってきた。イタリア大使館のホームページには、「外交官としての最初の赴任地であり、心より親愛の念を抱いてきた国である日本にて、再びイタリアのために尽くすことができることを大変光栄に思っています」とのメッセージが掲載されている。

庭園を望む大使官邸の玄関。

質感のある木製の壁に埋め込まれた大きな暖炉とジオ・ポモドーロの彫刻がある二層吹き抜けのサローネ。

石灯籠と丸木橋が設けられた庭園と池。夜になると美しくライトアップされる。

嘉永年間に描かれた伊予松山藩松平家の中屋敷の古図面。
大使のファッションとは? 着任以来、日本とイタリアの架け橋として、忙しい毎日を送っている。イタリアの基幹産業でもあるファッションを含むメイド・イン・イタリーを広めることも、大使の重要な役目である。
「イタリアン・ファッションは日本で大人気となりました。華やかなモードにしても、クラシックな仕立て服にしても、イタリアの服は丁寧な物作りに支えられています。隠れたところに手がかかっているのです。そこが日本人に好まれる理由ではないでしょうか」
大使自身は、イタリアの中でも、特にナポリ風のスタイルがお気に入りだという。マニカカミーチャ(雨振り袖)のジャケットも多く所有しているらしい。
「実は私の妻の家族がナポリ出身なのです。彼女の家では代々サルトで洋服を仕立てる伝統がありました。彼女に手ほどきを受けて、私もス・ミズーラを試すようになったのです。ナポリの服は仕立てが柔らかいので、着心地がとてもいい。ナポリはまさにス・ミズーラの街ですね。スーツはもちろん、生地、ネクタイやシャツ、カフリンクスまでさまざまなものを自分で選ぶ習慣があります」

ナポリ風の仕立てを好むという大使の装いはプレーンなスーツにシルク製プリント・タイの組み合わせが多い。ロロ・ピアーナ製の生地が張られたソファの上で。
大使といえば、さまざまなパーティに出席し、いつもタキシードなどのフォーマルに身を包んでいるイメージだが……。
「昔の大使はモーニングコート、タキシード、そしてテイルコートが必須だったようですね。しかし現在ではカジュアル化が進み、9割以上のオケージョンにおいてラウンジスーツ(普通のスーツ)でOKです。モーニングとタキシードも所有していますが、前者に袖を通すのは年に2~3回程度でしょうか」
大使の仕事の合間を縫って、在日イタリア大使館についての著作を執筆しているという。どういった内容なのだろう?
「イタリア大使館が位置しているのは、江戸時代から400年にわたる由緒ある土地なのです。私の本は、この美しい庭と建物の物語を包括的に綴る、初めての試みとなるはずです。庭園はもともと沢庵和尚が作庭したといわれており、1930年代にイタリア大使館が霞が関から移転してきた頃から、名園として知られていました。都心だというのに、さまざまな生物が見られます。サギなどの野鳥も多く飛来します」
純和風の庭園に対して、大使官邸の建物はモダンな意匠でまとめられている。これらふたつの対比と調和が、イタリア大使館の見どころだという。
「1965年に完成した大使官邸の建物はイタリア人建築家ボルゲーゼと日本人建築家ムラタ(村田政真)による共同設計です。インテリアはキアラ・ブリガンティという女性が担当しました。古代ローマ時代の出土品から、1960年代の絵画や彫刻まで、館内には数多くのアートピースが飾られ、さながら美術館のようです」

エンリコ・カステッラーニ作「白の上の白」(1966年)。

キアラ・ブリガンティによる大理石の基部を用いた胡桃の木のテーブル(17世紀)。
ゲストを呼んで、大使官邸のなかのアート作品を回るツアーが行われることがあるとか。その際は大使自らが案内役を務めるという。
ベネデッティ大使とサビーナ・ダントニオ大使夫人はこの3年間で庭園と大使官邸の調度品を見事な元の姿に戻す保存的修復のプロジェクトを実現させた。
「大使官邸は60年の歴史がある建物です。ですので、修復作業のひとつひとつが挑戦でしたが、多くのイタリア企業の協力おかげで、オリジナルの素晴らしさを再現することができました」
見事にライトアップされた庭園をバックに、大使館の建築について目を輝かせつつ語ってくれた。最後はイタリアという国そのものの魅力について伺ってみた。
「イタリアの魅力は、三つあると思います。ひとつ目は、古代ローマからの文化が脈々と受け継がれていること。何世代にもわたる世界遺産と美術品が数多く残っています。これは日本とも通じるものがありますね。ふたつ目は、『ドルチェ・ヴィータ(甘い生活)』という言葉に代表されるライフスタイル。快適で洗練された生き方はイタリア人の身上です。そして三つ目は、フレンドリーでクリエイティブな国民性。イタリアがファッションの国といわれるのは、やはりイタリア人は美しいものを愛するからだと思います」
そう言って胸を張るベネデッティ大使は、イタリアの持つ三つの魅力をそのまま体現しているような人であった。

ルーチョ・フォンターナ作「空間の概念、神の最後」(1966年)。非常に貴重な作品。

「小さな暖炉の間」ロロ・ピアーナ社の布地張りソファに座る大使。後ろの壁面のレリーフはアルナルド・ポモドーロの作品。