BHUTAN BLOSSOMS
静寂と幸福に包まれる手つかずの王国ブータンへ
June 2025

息を飲む景色が目の前に広がる全8室だけの「アマンコラ, ガンテ」。©︎BEN RICHARDS
旅の歴史において、伝説や神話に彩られた特別な場所はいくつかある。そのなかでも上位に挙げられるのが、ヒマラヤ山脈の東部、首都ティンプーは標高約2,400メートルの高地に位置する「最後の仏教王国」だろう。文字通り“世界の頂点”にあるこの国は、1974年まで外の世界とほとんど接点がなかった。そして私たちがこの誇り高く、閉ざされた国を知ったとき、まるで現代の“ブリガドーン(※幻の村)”のような存在だったことに気がついた。ちなみにこの国がテレビ放送を導入したのは1999年のこと。世界で最も遅かった。
そこは、チルパイン(ヒマラヤマツ)の森が点在し、祈りの旗が風に揺れる、美しく魅惑的な土地。静かに心を落ち着かせる小川には氷河から流れる青緑色の水がきらめき、聖なる雪山がそびえている。
この国は今もなお手つかずのまま残されている。真に本物で、汚されておらず、唯一無二の場所というのは、今ではほとんど存在しない。しかし、ブータンには、まさにそんな魅力があり、人の心に深く残る、超越的な体験を与えてくれるのだ。
そう感じる理由のひとつは、アクセスのしづらさにある。というのも、ほとんどの旅行者は滞在中ずっと認可を受けたガイドの同行が義務づけられ、持続可能な観光を支援するために日ごとの料金を支払う必要がある。そのため、訪れる人の数は非常に限られている。加えて、目がくらむような山道(高所恐怖症の人には厳しい)や、ブータン人パイロットにしか操縦できないほど難易度の高いパロ空港への飛行(岩山の間を縫うように急旋回し、金色の寺院のそばを通り抜ける)などがある。ブータンへの旅がどれほど特別で、ある意味“特権的な体験”かがわかるだろう。しかし、観光開国から50年を迎えた今、これまで国外の2大ブランドが中心だったブータンのホスピタリティシーンに変化が見え始めている。


「アマンコラ, プナカ」。©︎Aman

「アマンコラ, プナカ」。©︎Aman
手つかずの自然を独り占めできる個性豊かなラグジュアリーロッジ その先駆けであり象徴的存在なのが、老舗の「アマンコラ」だ。パロ、ティンプー、プナカ、ガンテ、ブムタンの標高や規模が異なる5つの谷に位置するロッジは、農園から食卓に届く料理、心温まるサービス、そして比類のない自然環境において、ホテル業界の基準を築いてきた。彼らの掲げる“平和なる旅”というコンセプトは、今ではタイに本拠を置く「シックスセンシズ」も追随しており、2018年に登場した同グループは、今ではブータン国内に全5拠点・計82のスイートとヴィラを擁する。アマンがすべてのロッジで一貫したタイムレスなデザインと体験を提供している一方で、「シックスセンシズ」は多様なロケーションに合わせた趣の異なるロッジを展開している。
最近新たに登場したのが、「プナカ リバー ロッジ」だ。ラグジュアリーなホスピタリティとツアーを展開する&Beyondが手がけているもので、同社にとってアジア初の自社所有・運営施設となる。2023年に開業したこのロッジは、プナカの美しい棚田に囲まれた川の蛇行地点に位置している、全8室(ラグジュアリーテント6棟とヴィラ2棟)の小規模な隠れ家。ハイキング、ラフティング、マウンテンバイクなどを楽しむアクティブ派に最適な場所である。
また、自然豊かなスポットとして知られるポブジカ渓谷には、絶滅危惧種のオグロヅルが飛来するガンテ村がある。この地には、静寂に包まれる贅沢を満喫できる12室のみのブティックロッジ「ガンテ ロッジ」が佇む。メイン棟には手描きの天井画と石造りの暖炉がふたつあり、谷を見渡す開放的な眺望を楽しめる。ここでは、心を落ち着かせ、ゆったりと過ごす時間こそが最大の魅力だ。1日の終わりには、熱々のモモ(ブータン風餃子)を味わったり、ブータンの伝統的な石風呂に浸かったりするのもいいだろう。




いずれも「シックスセンシズ ブータン」。ティンプー(1,2枚目)とブムタン(3枚目)、パロ(4枚目)のほか、ガンテとプナカの計5軒のロッジがある。
増えつつある中規模の五ツ星ホテル 一方、ブータンで早くから展開していた老舗の高級ブランド「コモ ホテルズ アンド リゾーツ」は、かつての要塞(ゾン)を思わせる風格あるロッジ「コモ ウマ パロ」と「コモ ウマ プナカ」を運営しており、今もなお根強いファンを惹きつけている。加えて、ブータンの玄関口であるパロの川沿いに建つ59室の「ル メリディアン パロ、リバーフロント」は、2015年の開業時から人気を誇る一軒だ。また、首都ティンプーにはすでに78室の「ル メリディアンティンプー」があるが、最近では「ヤーケイ ティンプー」もオープンし、83の客室に加え、2軒のレストランとヒマラヤを望むウェルネスセンターを備えている。
ブータンが描く力強い未来地図 こうして旅行客向けの宿泊施設が多様化するなか、当局はホスピタリティ分野を超えた投資にも目を向け始めている。GNH(国民総幸福量)をGDPよりも大切にしていることで知られるブータンは、世界で初めて「カーボンネガティブ」(温室効果ガス排出量が吸収量を下回る)を実現した国でもある。最近では、古道「トランス・ブータン・トレイル」の整備も完了。全長およそ400キロに及ぶこの道は、整備のため一時的に使われなくなっていたが、18の橋、約1万段の石段、数百キロに及ぶ小道が修復され、往時の姿を取り戻した。今ではこの道を、徒歩や自転車で旅したり、キャンプをしながら巡ったりすることができ、雄大な山並み、荘厳な要塞、人里離れた僧院などをめぐる体験が可能になっている。



いずれも&Beyondによる「プナカ リバー ロッジ」。ロッジの周りを棚田が囲む。
また、アートへの投資や、他の分野への取り組みによって、ブータンはパンデミックの影響から徐々に回復しながら、ソフトパワーと経済の両面で存在感を高めつつある。なかでも注目を集めているのが、国王の発案によって始動した経済特区「ゲレフ・マインドフルネス・シティ」の構想だ。ブータン全体の約2.5%という(シンガポールよりも大きい)広大な土地にわたって計画されており、34本の川を囲み、またぐ形で国南部の熱帯低地に建設される。今後20年かけて段階的に開発が進められる予定だ。この構想を手がけるのは、デンマーク人建築家ビャルケ・インゲルス。ブータンの文化的な豊かさを尊重しながら、革新と発展のバランスを図る都市設計を目指している。
こうした未来志向の取り組みと並行して、ブータンの人々の日常には、今も深く文化的な誇りが息づいている。例えば、男性は「ゴ」、女性は「キラ」と呼ばれる手織り草木染めの民族衣装を身にまとう。それは単なる衣服ではなく、卓越した織物技術を継承し、伝統を守る文化的な営みでもある。この国を訪れた者は、そんなブータン独自の美しさに包み込まれ、心と魂に深い感動を刻むことになるだろう。

ティンプーの「シックスセンシズ ブータン」にある幻想的なインフィニティプール。