MEURTRE ET MODE SUR LA MÉD
アラン・ドロン:死ぬほどクールでスタイリッシュ
October 2021
“服が人を作る”という格言が、これほどぴったり当てはまる映画はない。
Alain Delon / アラン・ドロン1935年パリ近郊の町ソーに生まれる。幼少時に両親が離婚。寄宿学校を転々とし、17歳でフランス軍に入隊。除隊後はさまざまな職業を経て、1957年にデビュー。1960年の『太陽がいっぱい』で、陰のある美しきアンチヒーローを演じて一躍有名に。以降もさまざまな映画に出演し、美男の代名詞的存在として人気を博した。
ルネ・クレマン監督のサスペンス『太陽がいっぱい』で、フィリップのヨットを操舵するシーン。
『太陽がいっぱい』(1960年)は、まさに服と殺人についての映画である。ストーリーは単純だ。アラン・ドロンが演じる貧乏な青年トム・リプリーは、友人である大富豪の息子フィリップ・グリーンリーフの傍若無人な態度に憤りを募らせ、船上で殺害してしまう。このサスペンスの舞台となるのは、絵葉書のような美しい景色のイタリア。ヨット、広場のカフェ、贅沢な暮らしなどが優雅に描かれている。
フィリップ殺害後のトムは、彼になりすまして銀行口座から現金を引き出し、ひいては彼の人生のすべてを手にしようとする。トムが着るのはもちろん、フィリップの服である。つまり衣装を着て登場人物になりきる役者が、衣装を着て他の人物になりきる役を演じているのだ。
トムはゴロワーズを咥え、フランスらしい控えめで冷たい男らしさを放っている。そしてこのファッションがまた素晴らしい。ポロシャツ、花柄のカバナシャツ、リネンのシャツのほか、オフホワイトのジーンズ、スエードのビット・ローファー、ロールアップされたチノーズ、エスパドリーユなどが登場する。
タバコを咥えてマーケットを歩き回る様子。
ローマやナポリの住人たちは、グレイ、ペールクリーム、ブルーなどの落ち着いた色のスーツを着て、無地のシャツやネクタイを締めている。まるでこの物語の明暗を服で表現しているかのようだ。トムが着るグレイスーツには、ドレスのルールを逸脱して白いローファーが合わせられている。靴下を履くことはない。ストライプのボーティング・ブレザーとレップタイが、フィリップのそもそものジェットセッターぶりを物語っている。シャツにはイニシャルが施されているが、「P.G.」ではなく「Ph.G.」となっているのが粋だ。この作品にはこうしたドレッシーなディテールがふんだんに盛り込まれている。
ルネ・クレマン監督はこの作品で、1960年代初頭の富裕層を描いた。世界を遊び場として飛び回り、金に飽かしてしばしば悪戯を働き、燦々と降り注ぐ陽光を浴びて余暇を愉しむ人々。彼らのファッションを抽出し、目指すべきスタイルとして提示しているかのようだ。
センスの良さとは、華美な柄を選ぶことではなく、ラグジュアリーな生地を好むこと。スタイリングの良さとは、自意識過剰なほど無造作風にまとめられた方法である。これは、フランス人が“シック”と呼ぶ感覚だ。『太陽がいっぱい』では、ドロン自身が衣装を手がけたわけではなく、コスチューム・デザイナーのベラ・クレマンによるものだったが、“シック”はドロンにとって以降も売り物になった。ちなみに1978年にドロンは自身の名を冠したフレグランスブランドを立ち上げて成功を収め、その後、服やアクセサリーのラインも立ち上げている。
富豪の息子フィリップのワードローブで、彼の服や靴を身につけるトム。
しかしこの映画では、より深いレベルでファッションが使われている。それは、階級、教育、ライフスタイルの違いといったものを表しており、着るものを換えるだけで、これらもまた取り違えることを示唆する(興味深いことに、ドロンは当初フィリップ役に配されていたが、一転してアンチヒーロー役に変更されてブレイクした)。
実際、フィリップに成りすました後、トムが再び元の自分に戻るときは、野暮ったいブルーのボタンダウンシャツが再登場する。また、ヨットに乗る前のシーンでは、フィリップがトムに「その靴では乗れないよ」と言う。これは、靴が甲板には適してないという意味なのか、それとも身分の違いを知らしめているのか定かではない。
船上のワンシーン。
フィリップの友人で、同じように裕福であり、殺人を最初に疑う人物であるフレディは、1950年代のタイトチェックのジャケットに蝶ネクタイというスタイルだが、イタリアの陽気で甘美な雰囲気の中ではやや浮いている。しかしそのおかげで、トムとフィリップの若々しさやスポーティさが際立っているのだ。ふたりの服は、美しい景色に完璧にマッチしている。波止場の古材や歴史ある石造りの建築物には洗いざらしの白が、地中海の海にはブルーが、フィリップのヨットの帆には淡いピン目にも美しいファッションが表現するものクが映えている。
フィリップの婚約者・マルジュとの会話を女刑事に盗み聞きされるシーン。
ファッションは、まるで瑞々しい舞台の一部であるかのようだ。原作者のパトリシア・ハイスミスは、この映画を「目には美しく、そして知的好奇心もそそられる」と評した。それまでこのふたつを兼ね備える映画は、ほとんどなかった。監督のクレマンは、後にフランスのヒッチコックと呼ばれるようになる。彼が選んだ豊かなロケーションは、『太陽がいっぱい』をアンチ・ノワール的に昇華させた。
テーマやキャラクターの動機づけ、ドロンの静かな演技スタイルこそフィルム・ノワール的だが、光に満ちた華やかな舞台や衣装はまったくノワール的でない。誰もフェドラ帽やトレンチコートを身につけていないし、雨の降る夜道で物影に隠れてもいない。この作品でタバコを咥えるのはたったふたり(しかもそのうちのひとり=フレディは、そのとき既に死んでいる)。しかし、登場人物の誰しもが、死ぬほどクールなのである。
ヨット内で食事をするシーン。フィリップからテーブルマナーについて見咎められて“育ちの悪さ”を指摘され、トムは憎しみを募らせてゆく。