Exclusive Interview: Michael Keaton
【ロングインタビュー】俳優:マイケル・キートン、みなぎる情熱
March 2025
photography eric ray davidson
fashion direction grace gilfeather
special thanks to the peninsula new york

Michael Keaton / マイケル・キートン1951年、アメリカ・ペンシルバニア州生まれ。『ラブINニューヨーク』(1982年)で映画デビュー。ティム・バートン監督の『ビートルジュース』(1988年)に出演後、再び同監督の『バットマン』(1989年)とその続編『バットマン リターンズ』(1992年)でブルース・ウェイン&バッドマン役を演じ、世界的なスターとなる。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014年)でアカデミー賞主演男優賞にノミネート。演技派としてその名を世に知らしめる。
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「もうこれ、ちゃんと録音してる? この話、大好きなんだよ」
インタビューで俳優が会話の記録を求めることなど、まれだ。しかも、私(筆者)の腰痛についての話題だったのだから、まったく関係ない……と思ったら、間違いだった。マイケル・キートンは会話の達人で、取材中、どんな話題でも面白いエピソードを提供してくれた。もちろん映画の話も含まれるのだが、とにかく最初の話題は“腰痛について”だった。
「僕も長年悩まされてね。よくなるまでかなり時間がかかったよ。昔アイスホッケーをやっていたのが悪かったんだな。あのつらさは本人しかわからない。僕の場合は、子どもがまだ小さかったときに一番ひどかった。よく親が子どもを運ぶのに、片手で腰の上に引っかけるよね。あの格好、人によく笑われるけれど、痛みを悪化させるんだ。『ミスター・マム』(1983年)の撮影時には、スタッフが移動用にステーションワゴンを手配してくれたんだよ。僕が横になれるようにね」
私のような腰痛持ちが励まされるのは、どれほど腰痛がひどかったとしても再び普通の生活を送れるようになるということだ。73歳のキートンは、身のこなしも颯爽としていて、腰痛の悩みなどどこへやら。エネルギーに満ち溢れている。
最近もそのエネルギーを十二分に発揮していて、2024年公開の出演作3本のプロモーションを行っていた。そのうちの1本(『Knox Goes Away(原題)』)では、彼が監督兼主演を務めている。残りの2本、『ビートルジュース ビートルジュース』と『Goodrich(原題)』では、見た目もテーマもかけ離れた演技を見せている。『ビートルジュース ビートルジュース』では、同志ともいえるティム・バートン監督と再びタッグを組んだ。このコンビによる前作『ビートルジュース』(1988年)、そして『バットマン』(1989年)が、主演のキートンを一気にスターダムへと押し上げたのだ。

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田舎の少年がバットマンになるまで キートンの俳優への道ははじめから決まっていたわけではない。子どもの頃はペンシルバニア州西部の自然の中で育ち、6人の兄とひたすら外遊びをしていた。
「ピッツバーグの郊外は、労働者階級が住む鉄鋼業の地域でね。鉄道の町と、祖父が働いていた製鉄所の町のあいだに住んでいた。ただの田舎の子どもだよ。自転車で小川へ行ってはミミズで魚を釣ったりしてね。中産階級でも下の層だから、お洒落なこととは無縁。学校ではいつも周りよりどんくさかったね」
それだけ田舎生活に浸かっても、自然だけでは人生は満たされず、やがて演技の道に進むようになる。彼は7人兄弟の末っ子で、本人曰く「家の中に観客がいた」ようなものだった。芸能界で仕事をしている家族はいなかったが、彼は小さい頃から想像力を働かせるのが得意だった。ある日、父親が小さな白黒テレビをくじで当てて持ち帰ったのだが、それがキートンにとって芸能界を知るきっかけとなった。ペンシルバニア州のふたつの町に挟まれた小川をはるかに超える広い世界で、彼は持ち前の想像力を膨らませた。
「学校が休みの土曜の朝は、起きるとすぐにテレビをつけたよ。西部劇や第二次“『この仕事、好きかも』と思えた。でも有名になってやろうとか、そんなことは頭になかったね”世界大戦の映画をよく観ていたね」
ただし、演劇や芸術をよく理解していたというわけではない。
「演じたがりの演劇小僧ではなかった。そこらへんの若者と同じだよ。大学に入ったときに演劇に興味を持って、授業をふたつとって、それなりに面白いと思ったけど、夢中にはならなかったな。その後、稼ぐために大学をやめざるを得なくなった。タクシー運転手、レストランの従業員、クルマの駐車係。いろんな仕事をしながら、ある夜受けたオーディションで、ある舞台の役をもらったんだ。いい劇団でね、『この仕事、好きかも』と思えた。でもまさか、誰かが批評を書いてくれるとはね。ある日職場に行ったら、『お前の記事が出てるよ』って言われて。地元の新聞社が、褒めてくれたんだ。それで、本気でやってみるかと思い始めたわけ。有名になってやろうとか、そんなことはまったく頭になかったね」
キートンが心を惹かれたのはコメディだった。子どもの頃のヒーローは野球やアメリカンフットボールの選手だったが、やがてコメディ俳優やスタンダップコメディアンに憧れるようになった。実際、名前を売るためにスタンダップコメディに挑戦したこともある。そうして70年代に小さな役をいくつか演じたのち、1983年の映画『ミスター・マム』で初主演を飾り、キャリアが上向き始めた。
DIGITAL TECHNICIAN: JUAN HERRERA
GROOMING: MARISSA MACHADO AT PRTNRS
PRODUCTION: COPIOUS MANAGEMENT
本記事は2025年3月25日発売号にて掲載されたものです。
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THE RAKE JAPAN EDITION issue 63