LVMH Metiers d'art x Antoine Dupont Vol.1

世界的スターが巡る匠の地・京丹後──LVMH メティエ ダールがつなぐ伝統と創造の旅【前編】

September 2025

日本のクラフツマンシップの最高峰を求め、世界的トップアスリートでありラグビー選手のアントワーヌ・デュポン氏が京丹後を訪問。分野は違えど同じく高みを目指す日本の職人たちの魂に触れ、どのような化学反応が生まれるのか。彼の眼を通して、日本のものづくりの真価を問うた。

 

 

text riho nakamori

 

 

アントワーヌ・デュポン/Antoine Dupont
1996年、フランス・オート=ピレネー県生まれ。スタッド・トゥールーザン所属のラグビー選手で、ポジションはスクラムハーフ。ラグビーフランス代表のキャプテン。2021年、若干25歳にしてワールドラグビーの年間最優秀選手賞に選出。2022年シックスネイションズチャンピオンシップにて、10度目のグランドスラム優勝。2024年にルイ・ヴィトンのアンバサダーに、2025年に「大阪・関西万博」フランス パビリオンのアンバサダーに就任。家族はフランス南西部ピレネー山麓など、限られた地域で飼育されるフランス原産の黒豚「ビゴール豚」の生産に関わっており、ものづくりや伝統文化に深い関心を寄せている。

 

 

 

日本に眠る「芸術的な手仕事」を求めて京丹後へ

 

 日本への訪問は「ラグビーワールドカップ2019」以来、今回で2度目だと話すデュポン氏。

 

「都会ではない、まだ知らない日本の姿を見てみたかった。特に、伝統文化が根付く京都、中でも日本の原風景が広がる場所で、そこに根付いた文化に触れてみたい」

 

 彼の家族は、絶滅の危機にあった希少な「ビゴール豚」の血を絶やさぬよう、その飼育と加工品の生産に情熱を注いできた一族だ。

 

「兄を見ていても、大量生産で利益を得ることには関心がない。一頭一頭の品質にこだわり、妥協せず、常に最高を目指して時間をかけている」

 

 幼い頃から職人気質な人々に囲まれて育った彼にとって、伝統を守り、その価値を高めていくことの重要性は、肌で感じてきたことである。そんなデュポン氏にとって、独自の文化と伝統を継承する日本の伝統工芸や手仕事は、大きな関心事であった。

 

 

 

世界の工房や職人を発掘し、次世代へと継承するLVMH メティエ ダール

 

 彼をものづくりの聖地・京丹後へと導いたのは、LVMHグループが擁する「LVMH メティエ ダール」だ。「LVMH メティエ ダール」は、ファッション&レザーグッズ部門のメゾンにとって不可欠な最高品質の素材や技術を確保し、発展させることを目的に2015年にフランスのパリで設立された。フランス語で「芸術的な手仕事」を意味するその名の通り、世界中に点在する優れた工房や職人(アトリエ)と長期的なパートナーシップを結び、彼らが持つ唯一無二の技術や伝統を保護・育成し、次世代へと継承していくことをミッションとしている。

 

 


西陣織ブランド「HOSOO」を手がける株式会社 HOSOO COLLECTIVEの代表取締役社長 細尾真孝氏(左)とLVMH メティエ ダール CEO マッテオ・デ・ローサ氏(右)。

 

 

 

 それは、未来のラグジュアリーを創造するための、文化への投資とも言える。レザー、テキスタイル、メタルパーツといった領域で、「LVMH メティエ ダール」は職人やマニュファクチャーとLVMH傘下のメゾンとの架け橋となり、時にはこれまでになかったような革新的なマテリアルの共同開発を促進する。単なるCSR活動ではなく、メゾンのクリエイティビティを刺激し、真に持続可能なものづくりを実現するための戦略的な取り組みなのだ。

 

 そして2022年、「LVMH メティエ ダール」は初となる海外拠点として、日本に支部を設立した。欧米諸国とは異なる独自の発展を遂げ、全国各地に多様なものづくりの産地が息づく日本。オリジナリティに富み、品質の高さや細部へのこだわりにあふれる日本の伝統工芸の技術力に目をつけたのだ。

 

「LVMH メティエ ダール」は、岡山のデニム生地メーカー「クロキ」や京都の西陣織「HOSOO」といった企業とパートナーシップを締結。その探求は現在、京丹後をはじめ日本各地へと広がっている。

 

 

 

「日本玄承社」の日本刀に見る、鍛錬を重ねてこそ生まれる伝統美

 

 

 

 まず訪れたのは、刀づくりの現場。デュポン氏は、幼少期にテレビのドキュメンタリーを見てから日本刀に関心を抱いており、日本製の包丁も自宅で使っているという。今回は3人の若き刀鍛冶が、今を写した日本刀の製作を志し設立した「日本玄承社」を訪問した。

 

 日本刀は、単なる武器という存在にとどまらない。平安時代後期にその原型が確立されて以来、武士の力の象徴であり、魂そのものとされてきた。戦乱の世が終わった江戸時代には、実用性以上に美術工芸品として、そして精神的なお守りとして価値が高まり、大名たちはこぞって名工の刀を求めた。明治維新後の廃刀令で一時は存亡の危機に瀕するも、その芸術性は国内外で高く評価され、今日までその技術が受け継がれている。

 

 

 

 

 工房の炉の中では、摂氏1300度を超える炎が「玉鋼(たまはがね)」を赤く染めていた。これは、島根県奥出雲にある、たたら製鉄「日刀保たたら」でのみ作られる、極めて純度の高い希少な鋼。「日本玄承社」代表取締役・黒本知輝氏の誘いで、デュポン氏はこの玉鋼を大槌で叩き、不純物を取り除いて鋼を鍛え上げる作業を体験することになった。

 

 

 

 

 7キログラムはあろうかという大槌を手に取り、何度も振り下ろす。ラグビーで鍛え上げた彼の肉体をもってしても、その一撃一撃が重い。

 

「鍬を使って、実家の畑を耕していたことを思い出します。この鋼が美しい刀へと変貌するのかと思うと、魔法みたいですね」

 

 汗を拭いながら、彼はそう言って微笑んだ。火花が激しく飛び散り、カーン、カーンという甲高い金属音が工房に響き渡る。

 

 

 

 

 一本の日本刀が完成するまでには、刀鍛冶だけでなく、刀身と柄を固定する金具「鎺(はばき)」を作る「白銀師」、鞘を作る「鞘師」、そして最終的な美しさを引き出す「研ぎ師」など、最低でも4人の職人が必要となる。その歳月は、1年から1年半。デュポン氏は、その途方もない時間と手間に、息を呑んだ。

 

 さらに、職人たちの置かれた厳しい現実も明らかになる。刀鍛冶として独り立ちするには、師匠のもとで最低5年の修業を積み、文化庁が実施する国家試験に合格しなければならない。だが、資格を得てからさらに5~10年と経験を積まなければ、とても一人前とは言えない世界だ。現在、全国に刀鍛冶は200人ほどいるが、現役で活躍しているのは100人にも満たないという。しかも、その平均年齢は60歳を超える。後継者問題は、待ったなしの状況なのだ。

 

「一人前になるまでに長い年月をかけて修業を積むと聞き、その覚悟と情熱に深く感銘を受けました」とデュポン氏。神妙な面持ちで黒本氏の話に聞き入っていた。

 

 

 

 

 工房の奥で、重さ約1キログラムに及ぶ太刀(たち)と、刀身の短い脇差(わきざし)を見せてもらう。光を当てると、刃に「丁子(ちょうじ)」と呼ばれる、クローブの花のような美しい刃文が浮かび上がる。これは、最も華やかながら最も技術的に難しい刃文で、「日本玄承社」が得意とする刃文だ。日本では刀身に加え、作り手の名が刻まれた茎(なかご)も見る文化があること、それぞれの刀の歴史や文化、使われ方をデュポン氏は黒本氏から学んだ。

 

「現代において刀が武器として使われることはなく、その機能的な役割は失われたかもしれません。しかし、これほどの時間と情熱をかけて技術を継承し、この美しさを次の世代に届けようとしている。その精神に、深く心を打たれました」

 

 デュポン氏は、刀を手に取りながら静かに語った。何百年もの間受け継がれてきた職人の誇りと、未来への祈りが込められた刀。アスリートとして常に高みを目指してきた彼にとって、この刀に宿る「用の美」を超えた精神的な価値は、新たな発見となったようだ。

 

 
世界的スターが巡る匠の地・京丹後──LVMH メティエ ダールがつなぐ伝統と創造の旅【後編】