北川美雪の「良い服」は人生を変える
Good Clothing Can Change Your Life

VESTAのスーツコンサルタント、北川美雪氏が、「パワーオブスーツ」をキーワードに、スーツを単なる服ではなく「人生を変える武器」として捉え、その魅力をお伝えしていく。

【第9回】家族から受け継いだ自分らしさを映す装いの作法

Wednesday, November 19th, 2025

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アンジェロ・トスカーノさん

ラルディーニジャパン 取締役

www.linkedin.com/in/angelotoscano/

 

 

柔らかな笑みの奥に感じるのは、異文化を越えて築かれた知性と誠実さ。装いはもちろん、言葉や所作のすべてに「敬意」という信念が宿る。アンジェロ・トスカーノ氏──その姿は、服を超えて人生を紡ぐエレガンスそのもの。

 

 

 

 アンジェロ・トスカーノ氏のキャリアは、決して一面的なものではありません。彼はドイツの企業に勤務した経験を持ち、現在も複数のイタリアブランドのアドバイザーを務めています。さらに、ローマの伝説的なジェラートブランド〈ジョリッティ(Giolitti)〉―筆者のお気に入りでもあります―の日本進出にも中心的な役割を果たし、現在もその活動に深く関わり続けています。

 

 現在は〈ラルディーニ ジャパン〉のディレクター兼CFOでもあり、多くのイタリア企業の長年のアドバイザーを務めるアンジェロ氏に初めて私がお会いしたとき、まさに「ファッションの世界に生きるイタリア紳士」と呼ぶにふさわしい佇まいでした。

 

 取材当日は完璧なバランスで仕立てられたラルディーニのスーツに、控えめなポケットチーフ、襟にはブランドを象徴する花のモチーフのブートニエール、そして手元にはブルガリの腕時計。どこにも誇張がなく、決して主張しすぎない。それでいて、静かに語りかけるように伝わってくるのです。

 

──「いま、自分がいる場所と、会う相手への敬意を忘れない」ということ。

 

 イタリア、ドイツ、日本という異文化、異業界の間でキャリアを築いてきたアンジェロ氏にとって、服は決して「衣装」ではありません。それは言葉以上に雄弁な“言語”です。個人の美意識を映し出すだけでなく、目の前の相手への思いやりを伝える手段でもあるのです。たとえば、スーツとネクタイを欠かさない日本のビジネスパートナーと会うときには、自らも同じレベルの装いで臨むのだといいます。

 

「それが、相手への敬意を表す最もわかりやすい方法だからです」と彼は語ります。

 

この“敬意”という一語こそが、彼の人生、装い、そして仕事の根底に流れるテーマなのです。

 

 

スーツ、シャツ、ネクタイすべて〈ラルディーニ〉。ブランドの哲学である“柔らかな構築美”を象徴する佇まい。構えずとも気品が滲むのは、服に対する敬意と日々の鍛錬があるからこそ。

 

 

 

スーツは単なる服ではなく、サインである

 

 異なる文化を行き来してきたアンジェロ氏は、装いが国や環境によって異なる意味を持つことをよく理解しています。イタリアでは「装うこと」は、自分らしさや個性の表現と深く結びついています。

 

「朝、服を選ぶときに私たちは考えます。──今日はどんな“自分”でありたいか、と」

 

 一方、アメリカでは装いは“見える力”の象徴。地位やリーダーシップを示す手段としての側面が強いといいます。しかし、日本ではその意味が若干異なります。スーツやシャツ、ネクタイは「サラリーマンの制服」としての役割を持っていました。だからこそ、若い起業家たちはそれをあえて着ないことで「自分はその枠に属さない」という意思を表現するのです。Tシャツやスニーカー、ジャケットなしのスタイルは、「私は別の文化にいる」という無言の宣言でもあります。

 

 この現象について、筆者もテーラーとして若干の懸念を抱くことがあります。パンデミック以降、若い世代を中心に急速に進んだ“過度なカジュアル化”の流れ。装いの境界線を学ぶ機会が失われつつあります。アンジェロ氏も「日本では“ちょうどよいカジュアル”と“行き過ぎたカジュアル”の線引きが、まだ定まっていない」と語ります。もともと洋装文化が根付いていない国だからこそ、いまもその“ニュアンス”を模索している段階なのだと思います。

 

 

 

エレガンスは、家族から受け継ぐもの

 

 イタリア人の装いについて語ると、多くの人が「生まれつきのエレガンス」という印象を抱くでしょう。アンジェロ氏は笑いながらも、「それはあながち間違いではありません」と認めます。彼はシチリア出身の父親の家庭に生まれ、装うことを“日常の作法”として学んできました。父親は80歳近い今でも、真夏を除いて常にスーツとネクタイで外出します。

 

「誰かに言われたからではなく、それが自分らしいと感じるからなんです。ジャケットを着ずに外に出るなんて、父には考えられないんです」と彼は言います。

 

 母親は小学校の教師で、いつもパンツスタイルのスーツを身につけ、実用的でありながら凛とした佇まいを崩さなかったそうです。そうした日常の積み重ねが、アンジェロ氏の“美意識の遺伝子”として刻まれています。彼はこう振り返ります。

 

「たとえば、ストライプのスーツに強い柄のシャツとネクタイを合わせないこと。どこかひとつはうるさい柄ではなく静かにしておく。目に心地よい調和が必要なんです。全部を主張させてしまう人と会うと、見ていて落ち着かないことがありますね」

 

 それは厳格なルールではなく、自然に受け継がれた感覚です。日曜の外出や親族の集まり、洗礼式──人生の節目に装う意味を家族が教えてくれたのです。

 

「かつてイタリアでは、日曜に通う教会のミサでさえ、男性たちは必ずジャケットを着ていました」と彼は懐かしそうに語ります。

 

時代とともにフォーマルさは薄れつつありますが、その記憶は今も彼の中に生き続けています。

 

 

〈ラルディーニ〉2025年春夏最新モデルのストライプスーツを着用。ご両親から受け継いだ教え──「柄には無地を合わせ、目に調和を」──を体現するように、シャツは潔くホワイトで統一。

 

 

 

ラルディーニ:伝統と革新のあいだで

 

 この「変わらぬ品格」と「現代的な軽やかさ」のバランスこそが、アンジェロ氏が〈ラルディーニ〉に見出す人気の理由です。〈ラルディーニ〉は長年、世界の名だたるブランドのスーツを手がける優れたファクトリーブランドとして知られてきました。

 

「つい最近まで、売上の半分以上はOEM(他ブランドの製造)でした」とアンジェロ氏は語ります。

 

 一方で、自社ブランド〈ラルディーニ〉は“柔らかなイタリアンテーラリング”の代名詞として世界的に認められる存在へと成長しました。象徴的なのは、現在もアイコンとして受け継がれる、かつてはフェルト製のみだったフラワーピン。

 

「ほんの小さなディテールですが、一目でラルディーニだとわかる存在になったんです。今ではメタルなど素材も進化していますが、“これはラルディーニだ”と感じさせるシンボルであることに変わりはありません」

 

 さらに同ブランドが早くから注目してきたのが、“快適さ”への進化です。

 

「コロナ以降、男性たちは“きちんと見えること”と“快適であること”の両立を求めるようになりました。堅苦しいスーツの時代は終わりを迎えています」と彼は言います。

 

「人々が求めるのは、構築的でありながら軽く柔らかいスーツ。スニーカーに合うテーラリング。そうした要望に応えられるブランドが生き残るのです」

 

 ラルディーニはその流れをいち早く体現しました。肩の力を抜いたアンコンストラクテッドジャケット、体の動きに沿う素材、構築美と軽やかさの両立。それが彼の言う「クラシックの再解釈」なのです。価格帯は“ミディアムハイ”。超高級メゾンのような特別感ではなく、日常に寄り添う本物のエレガンス。そしてその価値を最も理解しているのは、間違いなく日本人だとアンジェロ氏は言います。

 

「日本はラルディーニにとって世界一のマーケットなんです。職人技を理解し、日常の中で上質なジャケットを楽しむ文化がある。それが日本の強みです」

 

 

足もとはイタリアの名門〈ポリーニ〉のダブルモンクストラップ。クラシックの中に確かな個性を宿す選択。

 

 

 

日本──制服から選択の文化へ

 

 アンジェロ氏が強調するのは、日本人男性の装いのレベルの高さです。

 

「世界でもっともエレガントな国民のひとつだと思います」と彼は断言します。ただし、そのアプローチはイタリアとは異なります。

 

 イタリアでは親から子へ、無意識のうちに装いの作法が受け継がれます。一方、日本では雑誌や情報を通して学ぶケースが多く、理論的・知識的に発達してきました。その結果、上から下まで平均的な装いのレベルが非常に高い。ただし“制服文化”の強さゆえに、そこから離れようとしたとき、極端にカジュアルへと振れてしまうこともあります。

 

「若い起業家の中には、重要な打ち合わせでもTシャツやスウェットで来る人がいます。個性を表現したい気持ちは理解しますが、知らぬ間に相手への敬意を欠いてしまうことは懸念しています」と彼は穏やかに語ります。

 

「たとえば結婚式は、私にとってお祝いの気持ちを正装で表す重要な式。必ずネクタイをします。保守的だからではなく、“特別な場を敬う”という気持ちを大切にしたいんです」

 

 

腕もとを飾るのは、奥様から贈られた〈ブルガリ〉の時計。長年にわたり大切に身につけるその姿には、エレガンスを超えた愛情が感じられる。

 

 

 

一着のスーツが人生を変えた日

 

「良い服は人生を変える」と信じる人には、必ず“その瞬間”があります。アンジェロ氏にとって、それは名門ボッコーニ大学の卒業論文発表の日でした。教授陣の前で最終試験として論文を口頭発表するという、イタリアの伝統的なセレモニー。その日、彼は普段よりフォーマルなスーツとネクタイを身にまといました。

 

「スーツを着た瞬間、気持ちが変わったんです。背筋が伸び、声のトーンが自然と整いました。服が私に自信を与えてくれた。あの日、初めて“装いが心を変える力”を実感しました」

 

 それはシンプルな体験ですが、まさにこの連載の核心に通じます。服が人生を変えるのは、外見ではなく“内側の姿勢”を変えるからなのです。

 

 

さりげなく光るカフスボタンも同じくブルガリ製。母国ブランドを愛し、人生の節目に身につける──それもまた彼の“敬意の表現”である。

 

 

 

次の世代へ──装うという力

 

 対話の最後に、改めてこのテーマを尋ねました。「良い服は人生を変えると思いますか?」アンジェロ氏は迷わず答えます。

 

「もちろんです。良い服を着ると、自信が生まれ、姿勢が良くなり、言葉遣いや態度にも自然と意識が向く。周りの人もそれを感じ取ります。服はとても強力なツールなんです。ただし、傲慢ではなく“敬意”をもって使うことが大切です」

 

 そして、フーディーやスニーカーで働く若い世代に向けて、穏やかにメッセージを添えます。

 

「カジュアルも快適さも楽しめばいい。でも、境界線を知ってほしい。ネクタイがただの布ではない瞬間、ジャケットがただの服ではない瞬間があります。装いとは、自分のためだけでなく、相手や場を敬う行為でもあるのです」

 

 取材を終えてヴェスタを出るアンジェロ氏の胸には、光を受けて輝くラルディーニの花。その姿を見ながら、私は彼の父のエピソードを思い浮かべました。80歳を過ぎても、スーツとネクタイでスーパーへ向かうシチリアの紳士。時代遅れだと笑う人もいるかもしれません。けれど、私にはこう見えます。

 

──それこそ、いま私たちが最も必要としている「静かなエレガンス」。そして、何も語らずに伝わる言葉。

 

「自分を敬い、相手を敬い、この瞬間を装いで敬う」

 

 

 

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このインタビューは英語です。必要に応じ、言語設定の上でご視聴ください

 

 

Author: 北川美雪(きたがわ みゆき)

東京・銀座のテーラー「VESTA by John Ford」のゼネラルマネージャー。英語、イタリア語、フランス語に堪能、メンズファッションのエキスパートとして25年のキャリアを持つ。確かな素材選びとセンスの良い仕立てに定評があり、国内外のトップ経営者、政治家、各国の要人・大使らが顧客として名を連ねる。歴代の駐日イタリア大使にも絶賛された。ファッションに関する深い造詣を持ち、多くの雑誌などで記事を執筆している。好きな食べ物は「てっさ」である。https://johnford.co.jp/