THE HILLS ARE ALIVE

21マイルが刻んだ夢とスピードの神話、マルホランド・ドライブ

April 2026

道が、ただの道ではなくなるとき ―それがマルホランド・ドライブだ。ロサンゼルスの丘陵地帯を縫うように走る全長21マイルのワインディングロードは、デイヴィッド・リンチのような芸術家たちの想像力を刺激し、60~70年代にはスター俳優たちを“走りの世界”へと駆り立てた。
text andrew maness

マルホンド・ドライブからのハリウッドの眺め(1957年)。

 マルホランド・ドライブは、ロサンゼルスという巨大な都市を見下ろすように走る、全長21マイル(約34km)の無限の可能性を秘めた舗装路である。アメリカの中でも、これほど「アメリカらしい道」は他にないかもしれない。端的に表現するなら、デイヴィッド・トムソンのエッセイ『ビニース・マルホランド』だろう。彼はその中で、この道路をマリリン・モンローにたとえている。「ピンナップガールであり、同時に“観念”でもある。手入れの行き届いた庭園にはブランクーシの彫刻があり、一方では射撃の的にされたビール瓶の破片が散らばっている。自己愛と嫉妬のために造られたハイウェイであり、特権・贅沢・軽やかな優越感の象徴だ」と。

 この道そのものの魅力に加えて、マルホランド・ドライブが見せてくれる景色は圧倒的だ。デイヴィッド・ホックニーからマイケル・スタイプ、デイヴィッド・リンチまで、多くの芸術家たちがこの景観からインスピレーションを受けてきた。

人と機械の力を試す非公式な舞台 南には「夢と狂気」が入り混じったロサンゼルスという街が広がっている。北を見れば、「ザ・バレー」と呼ばれる巨大な市街地が地平線の彼方まで果てしなく続いている。西に目を向ければ、アメリカの大地が終わり、その向こうにきらめく太平洋の水平線の上に他の世界が待っている。そして東には、運がよければ、街とアメリカ本国を隔てる過酷な砂漠の縁までもが見渡せるのだ。

 この道の名の由来となったウィリアム・マルホランドは、ロサンゼルスの都市水道局長であり、同時に“賛否両論の人物”として知られる市の技師だった。彼はこの道を、ロサンゼルスの都市の中核と、牧歌的な郊外とを結びつけるための大動脈として構想した。実際、舗装されたマルホランド・ドライブ沿いには数多くの展望ポイントがあり、そこからアクセスできる市立公園の登山口も点在している。しかし、1924年12月27日に華々しく開通したその道は、ほどなくして「人と機械の限界を試す非公式な舞台」へと姿を変えることになる。曲がりくねった尾根沿いの道路は、マルホランド自身が想像した以上に有名になっていったのだ。カフエンガ・ブールバードからビバリー・グレン・ブールバードまで、およそ9マイルにわたるマルホランド・ドライブを走るということは、まるで“古きハリウッドの亡霊たち”と対話するようなものだ。

道路名の由来となったウィリアム・マルホランド(右から2番目)。内務長官のヒューバート・ワーク(左から2番目)、アーサー・S・ベント(左)、ロサンゼルス市長のジョージ・E・クライヤー(右)。

ジェームズ・ディーンを
快挙へと導いた“実践教室”
 かつてはゲイリー・クーパーやジョン・キャラダインといった往年の映画スターたちが、同じブラインドコーナーで、壮麗なデューセンバーグを走らせていた。そして後に、ジェームズ・ディーンがその道を使って、自宅のあるサンフェルナンド・バレーと撮影スタジオのあるハリウッドを往復しながら走行技術を磨き上げていったのもこの区間だった。彼は自身の1955年型の「ポルシェ 356 1500スーパー・スピードスター」を操り、その通勤路を“ドライビングの実践教室”に変えたのである。通勤のたびに“訓練”を重ねたディーンは、わずか数カ月でマシンとの強い一体感を築き上げ、1955年3月のパームスプリングスロードレースではノービス(初心者)クラスで優勝、総合でも2位という快挙を成し遂げた。スピードスターを所有してからわずか3カ月で出したこの結果について問われたディーンは、こう答えている。

「信じられないよ。ただマルホランド・ドライブを走っていただけなんだ」

 それから6カ月後、ディーンは公道走行可能なポルシェのレーシングカー「1955年型550スパイダー」を購入する。しかしそのわずか数週間後、レースに出場するために向かっていた道中で正面衝突事故に遭い、命を落とすことになる。ディーンがこのスパイダーでマルホランド・ドライブを走ったという記録は残っていないが、彼の姿勢とスタイルは、その後の世代全体に影響を与え、自らのポルシェを「マルホランド・スペシャル」へと改造し、ディーンが体現した自由と情熱のスピリットを追い求めたのだ。

ロサンゼルスで自身のポルシェ スピードスターに腰かけているジェームズ・ディーン(1955年)。

自動車愛好家たちの“巡礼地” ディーンの死から3年後、若くして名声を高めつつあった俳優スティーヴ・マックイーンは、テレビ番組『It Could Be You』にゲスト出演した際、ジャガーのブラウンズレーン工場での火災を生き延びた16台のうちの1台「ジャガー XKSS」を目にする。車にひと目惚れしたマックイーンは、番組ホストのビル・ライデンと交渉し、車のふたり目のオーナーとなった。彼はその車をブリティッシュ・レーシング・グリーンに再塗装し、「グリーン・ラット(緑のネズミ)」という愛称で呼ぶようになる。

 マックイーンはこのXKSSでマルホランド・ドライブを猛烈なスピードで走り抜けることで知られるようになり、ついにはロサンゼルス市警が「彼を捕まえてスピード違反の切符を切った者には高級ステーキディナーを奢る」とまで言いだしたほどだ。しかしそのディナーが振る舞われることは一度もなく、ジャガーはマルホランドを走り続け、やがてこの道は自動車愛好家たちの“巡礼地”となっていく。そして彼自身も60年代、真の映画スターへと上り詰めていった。

 ディーンやマックイーンといった名前は今もなお人々の記憶に深く刻まれ、そのスタイルは男性たちの心を大きく揺さぶり続けている。しかし、マルホランド・ドライブと切っても切れない関係にあった“あまり知られていない人物たち”こそ、この道を中心としたカルチャーの本質を最もよく映し出しているのだ。

「ジャガー XKSS」とともに写るスティーヴ・マックイーン(1966年)。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 67