SMOKE TRAIL

笑わせ続けた100年、ジョージ・バーンズの幸せな人生

January 2026

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映画『Love in Bloom』(1935年)の撮影中のバーンズとアレン。

 そして1923年、後に妻となるアイルランド系アメリカ人俳優、グレイシー・アレンと出会った。ふたりはヴォードヴィリアン・コメディ・デュオを結成。バーンズが寛大にも「笑いの主役」をアレンに譲ったことで人気は爆発した。名門B.F.キース・ヴォードヴィルと6年契約を結んだ彼らは、やがて『ラム・チョップス』のような名物で観客を沸かせた。

バーンズ:愛するのは好き?
アレン:いいえ。
バーンズ:キスするのは?
アレン:いいえ。
バーンズ:じゃあ何が好き?
アレン:ラムチョップ。
バーンズ:君みたいな小さな子が、ラムチ
ョップをふたつも食べられる?
アレン:ひとりじゃ無理だわ。ポテトがあれば食べられるけど。

 アレンのために書いたこうしたやりとり(他には、生け垣を電気シェーバーで刈るとか、卵をゆでる鍋に藁を入れて「家にいる気分にさせるの」といったものがある)は、40年代にかけてハリウッドを席巻したスクリューボール・コメディの萌芽だった。彼はこう回想する。

「彼女は世界で一番ドジな子っていうキャラクター設定だった。でも他の“おバカ娘”と明らかに違ったのは、グレイシーが完全に正気で完璧に演じていたところ。つまり、彼女の答えにちゃんと筋が通っているようにしたんだ。私たちはそれを『非論理的論理』と呼んだ」

 それは、成功の方程式だった。彼らは舞台からラジオへ(30年代に4000万人以上の聴取者を獲得し、週1万ドルという破格のギャラを得た)、映画へ(フレッド・アステアと共演した1937年の『踊る騎士』など、20本以上の作品に出演した)、そしてテレビへと進出した。CBSで10年放送された『The George Burns & Gracie Allen Show』では、バーンズが「グレイシー、おやすみを言え」と促すと、アレンが「おやすみ、グレイシー」と応じるのがお決まりだった。

1983年のエリザベス女王の米国公式訪問時に面会。

 1926年に結婚したバーンズとアレンは、長らくショービジネス界のファーストカップルと呼ばれた。バーンズは、ロサンゼルスにあるヒルクレスト・カントリー・クラブの常連となり、ジャック・ベニーやアル・ジョルソン、ダニー・ケイ、マルクス兄弟らとともに「コメディアンズ・ラウンド・テーブル」と呼ばれるランチ会に毎日のように参加するようになった。

 バーンズはしばしばベニーを床に転げ落ちるほど笑わせたが、グルーチョ・マルクスとは険悪な関係だった。バーンズが「チャップリンが面白い」と言うと、グルーチョは「自分のほうが面白い」と反発。するとバーンズはこう返した。「じゃあ私はチャップリンより面白いはずだ。だって君より面白いんだから」。その舌戦の後、ふたりはしばらく口を利かなかった。

 アレンは1959年に引退し、その5年後に心臓発作で亡くなった。バーンズは悲しみに打ちひしがれ、半年もの間、毎日彼女の眠る墓を訪れた。やがて再出発すると、眉をひそめる頑固者のキャラクターとともに、磨き上げた歌や機知に富んだ発言、そして不安定なタップを織り交ぜた芸を築き上げた。1989年のロサンゼルス・タイムズ紙は彼の成功のために必要だったアイテムを列挙した。

1.背もたれのないスツール
2.軽くリハーサルしたオーケストラ
3.ホットコーヒーで追いかけるマティーニ1、2杯
4.灰をきれいに払うための灰皿
5.エル・プロドゥクトのためのプラスチック製マウスピース

 バーンズの友人でコメディ脚本家のモート・ラッハマンはこう述べていた。

「グレイシーが亡くなった後、ジョージは一から学び直し、再出発するしかなかったんだ。彼は10年かかった。普通なら途中で諦めていただろう。それでもジョージは、エンターテインメント界の中心人物になった。二度もね」

THE RAKE JAPAN EDITION issue 66
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