SMOKE TRAIL
笑わせ続けた100年、ジョージ・バーンズの幸せな人生
January 2026
George Burns/ジョージ・バーンズ1896年、ニューヨーク州生まれ。ヴォードヴィル芸人として活動を始め、20年代にグレイシー・アレンとコンビを結成。ラジオやテレビでも人気を博したほか、映画『サンシャイン・ボーイズ』(1975年)でアカデミー賞助演男優賞を受賞。100歳まで現役を貫き、ウィットに富んだ芸と存在感で20世紀を代表するコメディアンと評される。
100歳を超える長寿の人々は、まさに人生の達人といえる。例えば、ビバリーヒルズ・ホテルの豪華な宴でろうそく100本のケーキを切り分けたカーク・ダグラスや、100歳の誕生日を祝うギルドホールの昼食会で、カンタベリー大司教が誤って盗んでしまったワインのグラスを「それは私の!」と鋭く取り戻したエリザベス皇太后を思い出してほしい。
ショービジネス界の最も尊敬された長老は間違いなく、アメリカのコメディアン、ジョージ・バーンズだろう。90代後半になっても彼の陽気さは健在で、100歳の誕生日となる1996年1月20日に、ロンドン・パラディウムで記念公演を行うと発表した。理由はシンプルだった。
「その前に死ぬわけにはいかなくなるからね。もう予約済みだよ」
残念ながら、公演は彼の転倒により中止を余儀なくされてしまった。観客は彼の決まり文句、「ここにいられて嬉しいよ。この年齢になるとどこにいても嬉しいんだ」を聞く機会を失った。
バーンズは、20世紀を通じてあらゆるエンターテインメントの舞台に存在した。ヴォードヴィル、ラジオ、テレビ、スタンダップコメディ、レコード、書籍、映画―これらすべてを成し遂げ、ついには「国民的」存在と呼ばれるほどの揺るぎない地位を確立した。
映画『踊る騎士』(1937年)でフレッド・アステアと共演するジョージ・バーンズとグレイシー・アレン。
彼は小柄でしゃがれ声、常にシガーを咥え、タキシードかタートルネックに建築家風の太縁メガネ、彫りの深い顔立ちで、どんな場面でも動じない様子で冗談を飛ばした。グルーチョ・マルクスとの舌戦を語るときも(後述する)、ホワイトハウスでジャッキー・ケネディに歌を捧げた思い出を話すときも(「私が『ラ・ヴィ・アン・ローズ』を歌ったら、彼女は自分が話してきたフランス語が完全に間違っていたことに気づいたんだ」)、そして年寄りジョークを披露するときも、常に冷静沈着だった。
「私が子供の頃は、死海もまだ死んでなくてね。病気だったな」
バーンズが少年だった頃―ステージに立ってパフォーマンスを始めた7歳の頃は、セオドア・ルーズベルトが第26代米国大統領に就任し、初の大西洋横断通信が成功した時代。だが、ポーランドからの移民だった父を早くに亡くしたバーンズ少年に、そんなことを知る余裕はまったくなく、家計を支えるためロウアー・イースト・サイドで働く日々だった。
彼は、友人たちと石炭の欠片を拾い集めてはポケットを膨らませて持ち帰り、近所から「バーンズ兄弟が戻った!」と叫ばれた。その地元の石炭商の名が、彼の後の芸名「バーンズ」となった。やがて合唱団「ピーウィー・カルテット」の一員となり、地元の酒場やフェリーで飛び込みで歌い、小銭を稼ぐようになった。彼が自身のトレードマークとなる小道具―シガーを手にしたのは、14歳のときだった(当初は1本5セントのシガー「ハーモ サ・ジョーンズ」だったが、のちに「エル・プロドゥクト」に切り替えた)。シガー・アフィシオナード誌のインタビュー時の推察によると、彼は生涯で30万本以上吸ったとされる。
「スーツをプレスしてもらう店に行ったもんだ。下着姿で立って待つような店。熱いうちにスーツを着て、膝を曲げないようにして冷めるのを待ってから、シガーを咥えて街を歩いたもんだよ。誰も職業を訊いてきたりはしない。見ればわかるだろ、ショービジネスの人間だって」
彼が輝いたショービジネス。それが、ヴォードヴィルという何でもありの世界だった。バーンズ自身も、ローラースケート芸やアシカの相方、さらにはヨーデルを歌いながらのジャグリングなど、名声を築くために何でもやったと認めている。







