March 2022

MERCHANTS OF DOOM

英国“東インド会社”の歴史にみる教訓

世界で最初の勅許会社でありながら、一航海ごとに資金を集め、船が帰国した後にその輸入品または売上金を分配するという株式会社の先駆けとなる形態を採っていたイギリス東インド会社。
最盛期には、英国陸軍の2倍に相当する26万の兵で構成された私設軍を擁し、南アジアの広大な地域を事実上の支配下に置いていたのであった……
text stuart husband

『British Soldiers Were Seen Fighting Their Way Through the Streets』と題されたH・E・マーシャルの絵画(1908年)。1857年のインド大反乱における、ラクナウ包囲戦の一場面だ。

 BBCが放送した『Taboo(原題)』は、ディケンズ風『グッドフェローズ』といった雰囲気の歴史ドラマだ。主演のトム・ハーディは、海運王を目指す冒険家、ジェームズ・ディレイニーを演じている。そんな『Taboo』の重要なシーンで、ディレイニーは黒っぽいフロックコートを着た男たちとの会合に呼び出され、陰気な部屋へとやってくる。そこで男たちは、ディレイニーがアメリカ西海岸に所有している土地の売却を要求する。だが、彼はそれを断固として拒否し、男たちの団体を「征服、強奪、略奪を流儀とする、無数の目と無数の耳を持つ獣」と評する。インド亜大陸とエリザベス朝イングランドを行き来し、綿、絹、茶といった商品を輸送するために生まれた貿易団体を、そんな風に評するのはやや手厳しいように思える。だが、男たちの所属するイギリス東インド会社はどこにでもあるような商社ではなかった。最盛期には、英国陸軍の2倍に相当する26万の兵で構成された私設軍を擁し、南アジアの広大な地域を事実上の支配下に置いていたのだ。

 イギリス東インド会社の「無数の目と無数の耳」は、大英帝国建設の礎だった。そして、「企業乗っ取り屋の元祖」であった。そんなイギリス東インド会社が残した遺産は、教訓に富んでいる。

ペリュー諸島から海へ乗り出す、イギリス東インド会社のヘンリー・ウィルソン船長(1784年頃)。

株式会社の先駆けとして誕生 18世紀半ばから19世紀初頭にかけて、イギリス東インド会社はベンガルや南部から、ムガル帝国の首都デリーまで勢力圏を拡大。インド亜大陸は、イギリス政府ではなく、民間の一企業に統治されることになった。その本社は、シティ・オブ・ロンドンのレデンホールストリートにあり、窓5枚分の幅しかない小さなオフィスだった。1765年から少し経った頃、ムガル帝国の役人はこう嘆いた。

「まだ尻の洗い方も覚えていない少数の商人に指図される我々に、どんな名誉が残されているというのだ?」

 イギリス東インド会社の創始者らがどんな衛生習慣を身につけていたのかは知らないが、同社がいつ誕生したのかははっきりしている。それはスペインの無敵艦隊が打ち破られたアルマダの海戦から11年後、1599年9月下旬のことだった。政治家兼金融業者のトマス・スミス卿が率いる80人の商人と冒険家が、シティ・オブ・ロンドンにあるファウンダーズ・ホールに会し、女王エリザベス1世に会社の創設を申請することに合意したのだ。1年後、“Governor and Company of Merchants of London Trading into the East Indies(東インドへの貿易を行う総裁および商人の会社)”を名乗る、218名で構成されたこの団体は、15年 にわたる“東方への貿易”の独占を認める王室勅許を受けた。

 この勅許により、当時としては革新的な体制の会社を設立することが認可された。従来は家族組合が標準的だったが、3本の十字架を組み合わせたゴシック様式のロゴを誇示し、後にイギリス東インド会社として知られることになるこの会社は、ジョイント・ストック・カンパニーであった。任意の数の投資家に対し、公開市場で売買可能な株式を発行することができるジョイント・ストック・カンパニーは、最小限の労力で多額の資本を生み出すことを可能にする仕組みだった。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 20
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