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今買える、世界の名画 Vol.06
アルベルト・ジャコメッティ

The Rakish ART ROOM Vol.06

Saturday, January 25th, 2020

20世紀を代表する彫刻家、アルベルト・ジャコメッティ。

長く引き伸ばされた彫像は、彼が「見たままに」表現した結果であった。

 

 

text setsuko kitani  cooperation mizoe art gallery

 

“ディエゴの胸像”

弟のディエゴを、表現豊かに表した作品。1950年代、ジャコメッティはディエゴの胸像を繰り返し制作し、7点もの作品を残しているが、本作はそのうちのひとつである。ちなみに1962年に開催されたヴェネツィア・ビエンナーレには、このシリーズから1点が出品され、見事、彫刻部門のグランプリに輝いている。ブロンズ H36.2cm 1956年に制作、本作品は1957年に6体鋳造されたうちの4番目。¥900,000,000(税込価格) お問い合わせは、ザ・レイク・ジャパン:info@therakejapan.com まで

 

 

 余計なものを極限までそぎ落とし、長く引き伸ばされた彫像。初めてアルベルト・ジャコメッティの彫刻を見た人なら、誰もが思うのではないだろうか?

 

「この彫刻は、どうしてこんなに細長いのだろう?」

 

 そのヒントとなるのが、彼が18〜19歳のときに体験した「洋梨のデッサン」のエピソードだ。スイスの小村ボルゴノーヴォに生まれ、画家の父ジョヴァンニの薫陶を受けて育ったジャコメッティは、ある日、父の求めに応じて「普通の距離」に置いた洋梨を見えるままに写そうとした。ところが洋梨は、父が描くような実物大にはならず、決まって小さくなってしまうのだ。

 

 1922年、芸術家を目指してパリにやってきたときも、ジャコメッティはモデルを前に必死にデッサンを試みる。しかし結局、ものの大きさや距離感の把握に対する問題解決にはいたらず、20代半ばで写実に基づく表現を断念。以後約10年間、記憶やイメージをもとにキュビスム風やシュルレアリスム風のオブジェを制作し、彫刻家として成功をおさめた。

 

 しかし、1933年に父ジョヴァンニが亡くなると、ジャコメッティは再びモデルを起用し、「見えるものを見えるままに」表すことに取り組み始める。彼の制作に協力を惜しまなかったのは、1歳年下の弟ディエゴであった。

 

ジャコメッティの1歳年下の弟ディエゴ・ジャコメッティ(1902-1985)。家具職人として活躍しつつ、ジャコメッティのモデルやアシスタントを務めるなど、兄の制作を支えた。彼の家具は、デザイナーのユベール・ド・ジバンシィも愛用していた。©Aflo

 

 

 1950年代、ジャコメッティは弟をモデルに、7点の胸像と数点の頭部の彫刻を制作した。そのうちの1点が本作である。細く引き伸ばされたフォルムに、波立つようなマチエールという、ジャコメッティ独自の様式をもったそれは細部が徹底的にそぎ落とされているが、何かを希求するように上を向いたモデルのまなざしは強く印象的である。

 

「ディエゴを写実的に再現するのではなく、自分の目に見えるままに形作ろうと試みた」。ジャコメッティの言葉からは、これこそが彼の目に映っていたディエゴ像であったことが窺える。ジャコメッティが「見えるままに」表現したかったのは、対象の表面ではなく、その奥にある本質だった。それをどう表現するかを、彼は追い求めていたのである。

 

 ジャコメッティの数少ないモデルのひとりだった、ひとつ年下の弟ディエゴ。1925年、兄を追うようにパリにやってきたディエゴは、鋳物職人としてブロンズ家具や装飾品を手がける傍ら、ジャコメッティが使う石膏を混ぜたり、鋳物や彩色を手伝うなど、兄の制作を支え続けた。一時はアトリエを共有し、生活費を得るために共同で家具を制作するなど、ふたりは極めて仲のよい兄弟であった。

 

《Tete d’Homme IV. (Diego).》

1964年、バーゼル市立美術館蔵。ジャコメッティが繰り返し描いた弟ディエゴの肖像。男性の肖像においてジャコメッティは頭部に強い関心を示したが、本作でも顔の部分は執拗に描き込まれている。©Aflo

 

 

 ジャコメッティのモデルになることは過酷以外の何物でもない。長時間不動のポーズをとらされる状態が、数週間、あるいは数カ月にわたって続くかもしれないからだ。そのため、彼のモデルは、家族や恋人など身近な人間に限られていたが、唯一、近親者以外でジャコメッティのためにポーズをとった異色の存在が、日本人哲学者・矢内原伊作(1918-1989)であった。

 

 ジャコメッティが矢内原に初めて会ったのは、1955年の11月、サン=ジェルマン=デ=プレのカフェ、レ・ドゥ・マゴにおいてである。現代フランス哲学を学ぶためにパリ大学に留学していた矢内原が、親友で美術批評も手がけていたフランス文学者・宇佐見英治に頼まれて、彼のジャコメッティ論が掲載された雑誌『美術手帖』を届けにきたのである。すぐに意気投合したふたりは、時折会っては語り合うようになり、その親交は矢内原の留学期間中続いた。

 

 1956年10月6日、帰国を2日後に控えた矢内原は、別れの挨拶をするために、ジャコメッティのアトリエを訪れる。このときジャコメッティが、矢内原をデッサンしたいと申し出たことが、彼の新たな創造の火蓋を切った。「よい記念になる」と、軽い気持ちでポーズをとった矢内原だったが、仕上がりに満足しないジャコメッティの求めに応じて、結局12月半ばまで帰国を延長。計72日間、1日も休まずジャコメッティのためにモデルを務めることになったのだ。その後もジャコメッティは矢内原をほぼ毎年パリに招待し、1961年まで彼の姿を写し続けた。

 

《Bust of Yanaihara[I]》1960年

1962年以降、矢内原がジャコメッティのために渡仏してポーズをとることはなくなっていたが、4年後、ジャコメッティが急逝した後のアトリエには、矢内原を描いた肖像画と石膏像が残されていた。©Aflo

 

 

 なぜジャコメッティは、これほどまでに矢内原に執着したのか? 東洋人特有の平板な風貌や、長時間不動でいられる忍耐強さなど、いくつかの理由が考えられるが、哲学者として自分の芸術を誰よりも理解していた矢内原を描くことが、ジャコメッティ自身の芸術の探求につながっていたのかもしれない。

 

 1966年1月10日、心膜炎によりジャコメッティが65歳で永眠したときも、アトリエには、矢内原をモデルとした石膏像2点と油彩による肖像画8点が残されていた。

 

 

アルベルト・ジャコメッティ/ALBERTO GIACOMETTI (1901-1966)

スイスに生まれ、フランスで活躍した、20世紀の最も重要な彫刻家のひとり。初期には、アフリカやオセアニアの彫刻やキュビスムに傾倒し、1920年代の終わりからは、シュルレアリスム運動に参加するなど、同時代の先鋭的な動きを存分に吸収。1935年よりモデルに向き合いつつも、身体を線のように長く引き伸ばした新たな彫刻のスタイルを確立。虚飾を取り払い人間の本質に迫る表現に挑んだ。©Aflo


 

<本連載の記事は以下より>

Vol.01 マルク・シャガール

Vol.02 ワシリー・カンディンスキー

Vol.03 モイーズ・キスリング

Vol.04 アンリ・マティス

Vol.05 パブロ・ピカソ