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今買える、世界の名画 Vol.03
モイーズ・キスリング

The Rakish ART ROOM Vol.3

Tuesday, July 30th, 2019

第一次世界大戦後の1920年代、空前の好景気に沸いたパリ、モンパルナス。

“パリのアメリカ人”が跋扈し、毎日がお祭り騒ぎだったこの「エコール・ド・パリ」の聖地に、

ふたりのキキが君臨した。ひとりは画家のキスリング、もうひとりは伝説のモデル、アリス・プランである。

 

 

text setsuko kitani cooperation mizoe art gallery

 

 

モンパルナスのキキ

横たわるキキを描いた、キスリング絶頂期の作品。西洋絵画の裸婦像によくみられるポーズをとっているものの、艶やかさのなかに倦怠感や虚無感が漂うのは、キスリングならではのメランコリーの表現。宝石のような深い輝きを持つ色彩は、透明性の絵具を何層も塗り重ねることによって表している。キャンバスに油彩 73×100cm 1925年制作 ¥25,000,000(税込価格)お問い合わせ:ザ・レイク・ジャパンinfo@therakejapan.com

 

 

 その柔らかく温かい皮膚の感触が伝わってくるような、どっしりと輝くヌード像。伝統的な裸婦像のポーズをとった女性は、暖色の敷布と、寒色の背景の間で、豊満な裸体を惜しげもなく晒している―。

 

 描かれているのは、「モンパルナスのキキ」と呼ばれたアリス・エルネスティーヌ・プラン(1901-1953)。ブルゴーニュの貧しい家庭に生まれ、1913年にパリにやってきた彼女は、15歳の頃にモンパルナスに集う芸術家たちと知り合い、彼らのためにポーズをとるようになる。数あるモデルの中でも、その天真爛漫で機知に富んだ性格は画家たちを魅了し、フジタやスーティン、ヴァン・ドンゲンらが彼女を描いた。彼女がいないと「(カフェの)ドームはドームらしくなくなり、モンパルナス界隈の影が薄くなる」とさえいわれたという。

 

 そんな彼女に、画家のキスリングが出会ったのは、第一次世界大戦後間もないカフェ、ラ・ロトンドの店先だった。初めてキキを見かけたキスリングは、店の主人に大声で聞いたのである。

 

「あの新しい淫売婦は誰だい?」

 

ダリア

メランコリックな人物画が知られるキスリングだが、彼はかなり早い時期から花卉画を描いた。特に1920年前後からは、細部が入念に描写されるようになり、花の肖像画のような風格を漂わせ始める。本作は各種ダリアの色とりどりの表現に加え、青地に金の模様が入った豪華なカーテンや、白い壺の質感など見どころの多い作品である。 キャンバスに油彩 73×55cm 1948年制作  ¥35,000,000(税込価格)お問い合わせ:ザ・レイク・ジャパンinfo@therakejapan.com

 

 

 20世紀初頭、パリで活動した異邦人の芸術家「エコール・ド・パリ」の重要な画家のひとり、モイーズ・キスリング(1891-1953)は、奇しくもあだ名を「キキ」といった、ポーランド生まれのユダヤ人である。美術学校卒業後、19歳のときにパリに出た彼は、モンパルナスを拠点に、ピカソ、ブラック、モディリアーニ、パスキンなどと交流。豊かな色彩と透明感溢れる、独自の絵画様式を築き上げた。

 

「エコール・ド・パリ」というと、病気と貧困の中で亡くなったモディリアーニや、放蕩の末に壮絶な自殺を遂げたパスキンなど、「呪われた画家」のイメージがつきまとう。しかし、エキゾチックな容貌と持ち前の社交性から「モンパルナスのプリンス」と呼ばれたキスリングは、早くからユダヤ系の支援者に恵まれ、第一次世界大戦で戦死した親友から莫大な遺産を相続し、作品も売れ続けた。彼が経済的に困窮することは一生なかった。

 

『モンパルナスのキキ』と同じ年に着衣のキキを描いた、『赤いセーターと青いスカーフをまとったモンパルナスのキキ』(1925 年/プティ・パレ美術館、ジュネーヴ蔵)。モンパルナスのカフェやナイトクラブで夜な夜な大騒ぎをしていた女王とは思えない、控えめな態度と思慮深い眼差しが印象的だ。©Aflo

 

 

 ラ・ロトンドでキキと顔見知りになったキスリングは、その後街で顔を合わせるたびに、まだ10代の彼女に向かって「売春婦」「ばばあ」などと汚い言葉を投げつけた。しかし相手の気を引くための子供じみた呼びかけにキキが応じると、ふたりは意気投合し、キスリングはキキをモデルに数多くの作品を描いた。

 

 1925年に制作された《モンパルナスのキキ》は、キキが24歳の頃のヌード。歌手や女優としても人気を博したキキは「モンパルナスの女王」として街に君臨し、ダダイストのマン・レイと同棲を始めていた。裸のキキの後姿にバイオリンのf字孔をつけたあの有名なマン・レイの写真作品《アングルのバイオリン》は、この前年に制作されている。本作が描かれた場所は、ジョゼフ・バラ街にあったキスリングのアトリエ。空前の好景気で「狂乱の時代」にあったパリは、小説家のヘミングウェイによれば毎日が「移動祝祭日」の様相だった。だが画中のキキは、そんな外界の喧騒から隔絶されて、降り注ぐ陽光の中、まどろむように白い裸体を横たえている。

 

リュクサンブール公園近く、ジョゼフ・バラ街にあったパリのアトリエで、モデルを描くキスリング。このアトリエはモディリアーニやフジタ、スーティンなどの画家や画商、モデルのたまり場だった。©Aflo

 

 

「モンパルナスのプリンス」と「モンパルナスの女王」。ふたりの「キキ」は、1920年代、芸術の都パリにおいて、画家、モデルとして絶頂期にあったが、その後の人生は全く違った。1929年に起こった世界恐慌により「狂乱の時代」が幕を閉じるのと時を同じくして、キキはマン・レイとの同棲生活を解消した。その後は歌手の仕事もふるわず、自らのキャバレー経営も失敗。第二次世界大戦後、45歳のときには麻薬の密売で逮捕され、1953年、アルコールや薬物依存により52歳で亡くなった。

 

 一方、ユダヤ人のキスリングは第二次世界大戦中に行った反ナチズムの抗議活動でナチス・ドイツから死刑宣告を受け、1941年にアメリカへ亡命。米国では、熱狂的なコレクターやハリウッドのセレブたちと華やかな社交を繰り広げる一方、フランスにとどまった芸術家やその家族の支援活動にも積極的に参加した。戦後、帰国したキスリングは、1953年4月、尿毒症の発作により、62年の人生を閉じる。南仏シャトー=ミュゼでの個展の最中という、栄光に包まれた最期であった。

 

 

モイーズ・キスリング/Moïse Kisling(1891-1953)

エコール・ド・パリを代表する画家で仲間うちのあだ名は「キキ」。19歳のときに生まれ故郷のポーランドのクラクフからパリに出た彼は、ピカソ、モディリアーニ、パスキンらと交流しながら、自らのスタイルを追求。イタリアやフランドルの古典的な絵画を学んだ彼の作品は、洗練されたレアリスムと静謐なムード、輝く色彩によるメランコリックな画風で人気を博した。©Aflo

 


<キスリング展が全国巡回中!>

 

東京都庭園美術館で7月7日まで開催されていたキスリング展が、全国を巡回する。日本で12年ぶりとなる回顧展では、今回ご紹介した《モンパルナスのキキ》を含む名作の数々を一堂に紹介。キスリングの画業を辿る。

 

岡崎市美術博物館2019年7月27日(土)~9月16日(月・祝)

秋田県立美術館2019年9月29日(日)~11月24日(日)