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今買える、世界の名画
Vol.02 ワシリー・カンディンスキー

The Rakish ART ROOM Vol.02

Wednesday, May 29th, 2019

美術館クラスの芸術作品を手に入れることは、歴史と文化の継承者となることを意味する。

連載第2回は、ワシリー・カンディンスキー。

一見では理解の難しい抽象芸術も、知を深めればその魅力の虜となるだろう。

 

 

text setsuko kitani cooperation mizoe art gallery

 

 

Ligne Volontaire

(Spontaneous Line / 自然に起こる線)

1933 年末に、パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌに居を移してから、約2年目に描かれた作品。1930 年代のカンディンスキーの作品には、海洋生物のようなアメーバのような不思議な描写が見られるが、本作でもこの形態と色彩が響き合い、作品に不思議な浮遊感と神秘性を与えている。濃い青色の紙にグアッシュ/48×34.5cm/1936 年制作。¥50,000,000(税込) お問い合わせ:ザ・レイク・ジャパン info@therakejapan.com

 

 

ワシリー・カンディンスキー

Wassily Kandinsky (1866-1944)

ロシア出身。「抽象絵画」の創始者のひとり。30歳にして芸術家をめざした彼は、1911 年にミュンヘンで「青騎士」を立ち上げ、ロシア革命下では初期の美術行政に携わり、1922 年から33 年にかけてバウハウスで教鞭をとった。その後ナチス・ドイツの脅威から逃れてフランスに亡命、パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌで78 年の生涯を閉じた。©Aflo

 

 

30歳での船出

 多彩なフォルムと明快な色彩が響き合い、音楽に合わせて踊っているかのような詩情溢れる抽象画で知られるワシリー・カンディンスキー(1866-1944)。「抽象絵画」の創始者のひとりとして、近代美術史の1ページに記された彼の人生は、一方で歴史に翻弄された人生でもあった。

 

 1866年12月4日、カンディンスキーは茶の貿易を営む裕福な家庭に生まれた。モスクワ大学で法学と経済学を修め、大学講師や著述家として華々しく活躍する彼が将来芸術家になろうとは、誰も思わなかったに違いない。しかし、モスクワの展覧会でモネの《積み藁》を観たことが、カンディンスキーのその後の人生をがらりと変えた。印象派の画家モネの、光を浴びて何を描いているのか判別できないほどに解体された積み藁の描き方が、彼に衝撃を与えたのである。この常識を覆す芸術体験をきっかけに、カンディンスキーは、学者としての輝かしいキャリアを捨て、芸術家になることを決意する。このとき既に30歳。同時期の画家たちに比べれば、少々遅い船出であった。

 

カンディンスキー初期の頃の作品、『夜』(1907 年)。©Aflo

 

 

抽象への道

 1896年、当時のドイツ語圏における芸術の都ミュンヘンに赴いたカンディンスキーは、アレクセイ・ヤウレンスキーやガブリエーレ・ミュンターといった前衛美術運動の仲間たちとの活動の中で、「精神的」な「目に見えない世界の表現」を重視した抽象表現を模索する。

 

 それ以前に描いていた中世の騎士やロシアのおとぎ話をテーマにした幻想的なテンペラ画は、実景から解放された色とかたちが響き合う美しい風景画にとって代わり、やがて聖書や神話をテーマとしたヨーロッパの伝統的な構想画を20世紀的な感覚で描く代表作「コンポジション」のシリーズが誕生した。また1911年には、盟友フランツ・マルクと芸術家グループ『青騎士』を結成し、メンバーによる企画展なども行っている。しかし1914年に勃発した第一次世界大戦により、敵国ロシア出身のカンディンスキーは、ドイツからの退去を余儀なくされ、同時に彼の幸せな「ミュンヘン時代」も終わりを告げた。

 

ロシアへの帰国直前、モスクワの特徴的な景観をひとつの円の上にダイナミックに描いた『モスクワ(赤の広場)』(1916 年)。©Aflo

 

 

ユートピアを探して

 その後のカンディンスキーは、本人の意志とは関係なく、芸術の楽園を追われては安住の地を探し求める旅人のようだった。1917年にモスクワに居を構えた彼は、その年に起こったロシア革命の新政権に迎え入れられ、故国の芸術政策に関与する。ロシア芸術科学アカデミーの副総裁など要職を歴任するが、“諸芸術は国家のプロパガンダに用いるべし”と大きく方針を変えた政策とカンディンスキーの抽象表現は、まったくそぐわないものとなっていた。結局1921年末、彼は妻のニーナとロシアを後にする。もしロシアに残っていたら、粛清の対象になっていた可能性を考えれば、このタイミングで出国したことは幸いであった。

 

バウハウスで教鞭をとりながら描いたカンディンスキーの代表作『コンポジションVIII』(1923年)。©Aflo

 

 

 そしてこの翌年カンディンスキーは、ワイマールに新設された総合造形学校バウハウスに招聘され、教授となる。この革新的な学校はドイツ保守層の強い攻撃を受けてはいたが、彼は56歳から67歳までの約11年間、芸術家あるいは教育者として実り多い日々を送った。この頃彼が描いた最も有名な代表作が、シャープな線と幾何学的なかたちが飛び交う、《コンポジションⅧ》だ。

 

 しかしこの最後のユートピアも、1933年、ナチス・ドイツによって閉鎖される。カンディンスキーは、67歳にしてまたもフランスへの亡命を余儀なくされ、78歳で亡くなるまでの約10年間をパリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌで過ごした。ナチス・ドイツに「退廃芸術家」の烙印を押され、自らの抽象画に対するフランス人の無理解と絶えず戦わなければならなかったカンディンスキーのパリ時代は、お世辞にも「幸福な余生」とは言い難い。しかしこの時期彼が描いた《Ligne Volontaire》や《コンポジションⅩ》は、美とエネルギーに満ちている。彼が最後まで抽象への夢と芸術への希望を捨てなかった証であろう。

 

 

晩年の作品『コンポジションX』(1939年)。©Aflo