Sunday, November 22nd, 2015

Top of the World
トップ・オブ・ザ・ワールド

1960年代から70年代にかけて、黄金期にあったスイスのサン・モリッツは、国際派の
ジェット族にとって楽園のような冬のリゾート地だった。彼らの社交場となったのが、
親しみを込めて“ザ・パレス(宮殿)”とも呼ばれたバドルッツ・パレス・ホテルだった。
text nick foulkes

 ピーター・サーステットの哀愁漂うバラード『Where Do You Go To(My Lovely)?』では次のように歌われている。
「どこへ行くんだい、美しき人よ? 雪が降るとき、君はサン・モリッツにいるのさ。他のジェット族とともに……」
 19世紀の小説に親しんでいる人ならば、スイスがかつては夏のリゾート地であったことをご存じだろう。無防備な旅行客を猛吹雪で立ち往生させる雪は、名物どころか厄介者だったのだ。しかし、ヴィクトリア女王時代の末期になると、名門バドルッツ家がサン・モリッツを“冬の保養地”として紹介し始めた。
 一族の御曹司であるカスパー・バドルッツは、ホテル・ボーリヴァージュを購入した。カスパーは1890年代にボーリヴァージュを拡張、その結果、同ホテルはまるで要塞のように見事な外観を誇るようになった。これ以降、ボーリヴァージュは“ザ・パレス”として知られることになる。
 こうして冬の観光事業は軌道に乗ったが、冬のスポーツはまだ定着していなかった。むしろ強調されたのは、高地がもたらす医学的なメリットや、ザ・パレスで滞在客を楽しませる豊富な社交行事だった。ところが1928年、サン・モリッツが冬季オリンピックの開催地に選ばれたことにより、状況は一変した。25カ国から464人の選手が参加した同大会は、その後の冬季オリンピックと比べるとかなり小規模ではあったが、サン・モリッツがウィンタースポーツの本場として評判を得るきっかけとなった。
 1930年2月19日、スポーツ愛好家の一団がザ・パレスに集合し、スキー競技会の準備をすべく、クラブを結成することにした。“ コルヴィリア・スキークラブ”と名付けられたそれは、世界屈指の裕福層のクラブとなった。
 創設メンバーとして名を連ねたのは、母語はさまざまだが、ウィンタースポーツへの愛を共有する国際色豊かな面々であった。ジャンニ・アニェッリのような実業家もいれば、ベントレー モーターズの元オーナー、ウルフ・バーナートのような怖いもの知らずのスポーツマンもいたし、ロスチャイルド家のお歴々やココ・シャネル嬢までが参加していた。

欧州で一番ファッショナブルな村 その後、暗澹とした空気に包まれた第2次世界大戦中、サン・モリッツは裕福な亡命者やスパイにとっての避難所となった。壮麗で、豪奢で、雪に覆われてはいるものの、ザ・パレスはさながら『カサブランカ』に登場するリックのバーのような役割を担ったのである。しかし、戦争が終結するやいなや、サン・モリッツはかつての華やかさを取り戻し始めた。
 1947年3月10日の『ライフ』誌は、戦火で破壊され、瓦礫に覆われたカンの町で残骸と化した大聖堂の写真を掲載する一方で、「戦前の優雅さを保ち続けるスイスのスキーリゾート」という見出しで、人生を謳歌する社交界の人々の写真を9ページにわたって掲載した。
「国際派の人々は、国を追われた王族も、知る人ぞ知るプリンスも、美女もそうでない人たちも、スポーツマンも銀行家も、冬期休暇を過ごすならサン・モリッツだと考えている」と記事は陽気に解説し、サン・モリッツを「ヨーロッパでもっともファッショナブルな村」と呼んだ。
 戦争の惨事によって疲弊したヨーロッパは、誰も経験したことがないほど寒い冬を、震えながら過ごしていた。しかし、それと時期を同じくして、権力の座から退けられた王族たちが、戦争を忘れてパーティで大はしゃぎしていたのだ。
 オーストリア最後の皇后の義姉、エジプト、ルーマニア、ヘッセン、その他もろもろからやってきたプリンスなど、参加者の顔ぶれは多彩だった。
 50年代初期になると、サン・モリッツは世界の社交界における冬の中心となった。楽園生活の中心となったのは、恐ろしいほどのスピードを味わえるクレスタラン(そりの一種)、スキークラブ、そしてチェーザ・ヴェリアだった。
 山小屋だったコルヴィリア・スキークラブは、1951年の改築により絶景を楽しめる美しいクラブハウス・レストランに生まれ変わっていた。またチェーザ・ヴェリアは、17世紀に建てられた農家だったが、20世紀の改築により、スキー後に立ち寄る“田舎風”レストランに進化していた。付近には、かつての牛小屋を利用したボウリング場まで設けられていた。そのすべての中心にあったのがザ・パレスだ。
「サン・モリッツとザ・パレスにとってとても幸運だったのは、ハンス・バドルッツの長男である若きアンドレア・バドルッツが商才豊かだったことだ」
 こう語るのは、戦前は幼い客としてザ・パレスを訪れ、戦後は青年として戻ってきたルディ・シェーンブルク伯爵だ。
「ホテル内で、彼は最高のスタイルを披露していた。午後7時半以降は、男性はタキシード、女性はロングドレスを着用するのがルールだったが、毎晩その時刻になると、彼は自らロビーに出ていた。非の打ち所がないほど完璧に仕立てられたタキシードに身を包んでいたよ」

アニェッリも常連だった ルディ伯爵は、ほとんどのヨーロッパ人滞在客と親しい間柄にあり、縁続きである場合すら少なくなかったが、新たなグループの存在にも気づいていた。「ギリシャの躍進が始まった頃だったから、サン・モリッツのあたりでもギリシ
ャ人を見かけるようになっていたんだ」
 野心に満ちたスタブロス・ニアルコス(ギリシアの実業家)も、1950年代の初頭には、サン・モリッツがお気に入りだった。ニアルコスはコルヴィリア・スキークラブに加入し、一流のスキーヤーになることを自らに課した。その熟達ぶりは目を見張るほどで、サン・モリッツでもっとも急なコースのひとつは、今でも“ニアルコス・ラン”と呼ばれているほどだ。最上流階級の仲間入りをしたかった彼は、スキーが必要なたしなみであることを理解していたのである。
 アニェッリも負けじとばかりに、トリノからサン・モリッツへ飛行機でやって来ては、その日のうちにとんぼ返りしていた。アニェッリは、スキーリフトに乗って貴重な時間を無駄にする代わりに、後にヘリスキーと呼ばれる、新しい楽しみ方を編み出した。
 マルベーリャ・クラブの創設者、プリンス・アルフォンソ・フォン・ホーエンローエは当時をこう追想した。
「ある年のハイシーズンなど、ジャンニは毎日私に電話をかけては、『明日の朝6時に滑ろう』と誘ったものだよ。彼はサメーダンに自分の飛行機で到着すると、ヘリに私を乗せて山の上まで直行するんだ。私たちは正午ごろまでスキーに興じた。あれは我が人生でもっとも美しいコースだったよ。スポーツマンであること、射撃、ポロ、スキー、水上スキーをたしなみ、クレスタランで滑ることは、ジェットセッターの一員である上での大切な要素だった。サン・モリッツのようなリゾート地に行く口実になったしね。コルヴィリア・スキークラブのフォトアルバムは、ニアルコスの写真であふれている。ジャンニ・アニェッリなどの仲間たちと、仮装服を着てふざけ回っている写真もあれば、タートルネックのセーターとスキーパンツを身に着けて、美しい女性たちに囲まれている写真もある。時には彼の奥様も一緒だよ」
 あるシーズン、ニアルコスは脚を骨折してしまったが、冬の楽しみと社交の機会を逃すわけにはいかないと、シーズンが終わるまでザ・パレスのワンフロアを借り切った。そして海抜6,000フィートの高地から、電話、電報、国際電報、急送便を駆使しながら、ホテルで自分の仕事を切り盛りしたという。

ザ・パレスのスケートリンクに設けられた、固めた雪でできたバーで、真昼のカクテルを楽しむ滞在客たち(1947年)。

毛皮のひざ掛けで防寒しつつ、サン・モリッツで日光浴をする“サン・モリッツの無冠の女王”ことフィオーナ・ティッセン=ボルネミッサ男爵夫人。

同ホテルで働く優雅な装いのウェーターたち。

PHOTO:BADRUTT’S PALACE HOTEL ARCHIVE.

THE RAKE JAPAN EDITION issue 07
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