Tuesday, January 24th, 2017

THE ART OF HAPPINESS

幸せな関係
思春期の少女たちをエロティックに描いた画家バルテュスと
節子・クロソフスカ・ド・ローラ夫人の間には、30歳以上の年齢差と文化的な隔たりがあった。
それでもふたりは、芸術史上まれに見るほど円満な愛情関係を築いた。
text nick scott

  芸術家同士が恋に落ちるとき、その先は茨の道になることが多い。例えば、ジャクソン・ポロックの絵画には激しい動きの衝突が見られるが、これは同じ抽象表現主義者であるリー・クラズナーとの結婚に対する苦悩が表れたものとも解釈できるし、パブロ・ピカソは自身のミューズでもあった写真家ドラ・マールの肖像画を描いたが、捻れて残酷さすら感じるその描写は、酷く不安定だったふたりの関係を映し出している。メキシコ人女流画家フリーダ・カーロと、多くの壁画作品で知られるディエゴ・リベラのカップルもまた、不満を抱くフリーダの両親に「象と鳩」と呼ばれた上、数々の浮気や別居により離婚と再婚をするという苦難に満ちたものだった。
 しかし、バルテュスと節子夫人の40年に及ぶ愛情関係は、芸術界が育んだ男女の縁の中でも特に学ぶところが多い。性愛を数多く描いたバルテュスが日本人芸術家の節子夫人と出会ったのは、彼女が20歳の大学生のときだった。

スキャンダラスな初個展

  バルテュスはバルタザール・クロソフスキー(後にポーランド貴族の血を引いているという主張の一環として、自身の名前に“ド・ローラ”を加えている)としてポーランド系の両親のもとに生まれた。パリ14区で育った彼には、美術史家の父と画家の母がいた。兄は哲学者兼作家であり、一家はパリの文化的エリートの中に数えられていた。両親はマティスやボナールと友人で、自宅の壁にはセザンヌやドラクロワの油絵を飾っていたという。
 バルテュスは40点のドローイングを収録した画集『ミツ』を11歳で出版したのち、自分の心を動かすさまざまな芸術を独学で研究する青春時代を送った。フィレンツェにあるピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画や、スイスの教会にあるテンペラ画から大きな影響を受け、25歳のときにパリにアトリエを構えた。
 当時の様式にはまったく関心がなかったバルテュスは、キャリアの第一歩となる1934年のパリでの個展に向けて制作に取りかかった。そのひとつが、最も有名で悪名高い絵画、『ギターのレッスン』だ。ギャラリーの奥の部屋のカーテンで仕切られた場所で15日間展示された同作は、音楽教師とギターの代わりに膝の上に乗せられた少女を描いている。ふたりの姿勢は“ピエタ”(十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアを描いたキリスト教美術作品)と似ているが、ニュアンスは教師の手の位置によって否定される。その手は、そこはかとなく暴力的な性の通過儀礼を予感させ、少女にはそれに抗おうとする意思が見られない。
 有名絵画の中には、時にエロティカの世界へ引きずり込むと指弾される作品がある。ヘンリー・ダーガーによる心がざわつくような子供の描写、ギュスターヴ・クールベが女性器を生々しく描いた『世界の起源』、サルバドール・ダリの『大自慰者』などが代表例だ。しかしこうした作品と比べても、バルテュスの『ギターのレッスン』は多くの鑑賞者に不快感や動揺を与えた。数十年後、彼は同作に対する自身の見解を述べた。
「当時は貧しかった。その状態から抜け出す唯一の方法が、物議を醸すことだった。成功したよ。過剰なほどにね」
 これは売名をひどく嫌ったバルテュスらしからぬ発言だ。1968年にテート・ギャラリーから、展覧会カタログに記載する自身の略歴を提出してほしいと依頼されたとき、彼はこう答えたという。
「略歴情報なし。バルテュスはまだ何も知られていない画家だ。さあ、絵をみてみよう」

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自宅で日常的に着物を着用していたバルテュスと節子夫人(1970年代)。

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若き日のバルタザール・クロソフスキー・ド・ローラ伯爵(=バルテュス)(1950年代)

THE RAKE JAPAN EDITION issue 13
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