Saturday, March 18th, 2017

THE PASSHION OF ST.JEAN

バスキアの情熱と受難
ジャン=ミシェル・バスキアのセンスは今なお敬愛されている。
彼はどんなときも、絵の具のついた手を仕立てのよいトラウザーズで無造作に拭いたし、
ポケットが100ドル札でシワになっても平気だった。
この名声に飢えた新表現主義のリーダーは、果たして利用されていたのだろうか?
それとも逆に、彼がスーツのもつ力や意味合いを武器にしていたのだろうか?
text benedict browne

 謎に満ちた鬼才バスキアの心や作品の本質は、1988年に27歳で早逝してからもしばしば議論のテーマとなり報道されてきた。彼は史上最高の黒人芸術家と見なされてきたが、そんなカテゴリはあまりにも大雑把で役に立たない。彼自身が「黒人芸術家ではなく、芸術家だ」と表明した通りである。一躍スターの座へ駆け上がった者が、突然の転落を迎える話はよく聞くが、バスキアもまた同じ道をたどった。彼の物語が描き出すのは、世界で初めて商業的に成功した黒人芸術家の人生というよりも、1980年代のニューヨークのアート界における名声につきものだった苦闘や試練そのものである。
 70年代後期のニューヨークで、住む家もない異色のグラフィティ・アーティストとして、SAMO(セイモ)という名前で活動していたバスキアは、あっという間に世界屈指の知名度と名声を誇る芸術家になった。1979年になると、“SAMO is dead[セイモは死んだ]”という終了宣言によって合作をやめ、単独の芸術家としての道を歩み始めた。
 70年代後期のアート界は、新表現主義の誕生により再び活性化していた。バスキアは、ジュリアン・シュナーベル、アンゼルム・キーファー、ゲオルグ・バゼリッツといった有名芸術家や作家らとともに、この新潮流の先頭に立っていた(ちなみにシュナーベルは、1996年の映画『バスキア』の監督を務める)。新表現主義の成長の起爆剤となったのは、従来のミニマリズム的なコンセプチュアル・アートに対して必然的に生じた反動や、大衆文化の要素をふんだんに取り入れた芸術作品であった。文化、社会、政治、神話にまつわるテーマをほとばしるような筆使いで表現した新表現主義は、色彩と活力に満ちた作品を数多く生み出した。年若く、名誉欲と戸惑いを抱えたバスキアは、世の中における自分の役割について確信がもてなかったが、自らの溢れ出る才能には何となく気づいていた。
 バスキアが1985年2月に『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の表紙に登場したことは、芸術史に新たな1ページを加える出来事だった。これは当時のアフリカ系アメリカ人芸術家にとって前代未聞の偉業であり、世界的に有名な芸術家としての地位を如実に物語っていた。赤い肘掛け椅子に座る彼は、靴下や靴の概念を拒絶しながら、遠くを見るようなまなざしをカメラに向けているが、その瞳は空虚さや困惑、苦悩に満ちた精神を想像させる。まるで誰も知らない秘密を知っているかのようだ。絵筆を握ったバスキアは、ゆったりとしたダークチャコール色のピンストライプ柄スーツを纏っている。お気に入りのスーツブランドは、ジョルジオ アルマーニだった。

Issue14_P158_01.jpg

ロンドンで撮影されたジャン=ミシェル・バスキア(1984年)

THE RAKE JAPAN EDITION issue 14
1 2

Contents