Monday, April 23rd, 2018

THE LEGEND THAT WILL NEVER DIE
チャーチルを知らずして、英国は語れず。

人ひとりの人生には、どれだけの価値があるのだろう。
ウィンストン・チャーチル卿は90年の人生を生き、死後も不滅の存在であり続けてきた。
彼は型破りで、時には議論を巻き起こしたが、英国の戦時指導者として類まれな知性とエネルギーを持っていた。
そして、彼は今なお自由を象徴し、不利な状況に対する果敢な抵抗を表している。
text kwasi kwarteng

 1895年11月30日、キューバは暑かった。キューバ中南部にある小村、アロヨ・ブランコでは、スペイン軍とキューバの反乱軍が戦いを繰り広げていた。この日はウィンストン・チャーチルの21歳の誕生日だったが、プレゼントは銃撃という形でもたらされることになった。「射撃されて当たらないことほど、爽快なことはない」と彼は後に語っている。
 陸軍将校に任命されたばかりのチャーチルは、退屈していた。1895年当時、青年将校が華々しく活躍できるような戦闘は、ほとんど行われていなかったからだ。だがチャーチルは、武勇で名を得ることを何より望んでいた。地図に目を通すと、戦闘がいくらかでも行われている場所はキューバだけのようだった。そこでこの若き将校は人脈を使い、スペイン軍の連隊に同行する機会を得たのだ。滞在期間はわずか1カ月だけだったが、彼が生涯愛好した葉巻の魅力に目覚めたのは、ここキューバでのことだった。

青年の心に野心の火が灯る

 ハロー校時代の学業成績にはむらがあり、父親は軍人の道に進ませるしかないと感じていた。チャーチルの父親であるランドルフ卿は、強情だが才気溢れる下院議員だった。話しぶりはウィットに富んでおり、1886年8月には37歳で財務大臣に任ぜられた。人々は、彼を未来の首相候補と噂したものだった。だが同年12月、予算に関するささいな事柄がきっかけで、ランドルフ卿は首相であるソールズベリー卿に辞意を伝えた。ソールズベリーは、そんなこけおどしには乗らぬとばかりに、辞職を承諾した。その後、ランドルフ卿が要職に就くことはなかった。そして1895年、46歳の誕生日まであと1カ月というときに、脳疾患でこの世を去った。
 父ランドルフ卿が早世したことは、チャーチルを理解するのに役に立つ。青年はその心に、野心の火を灯したのだ。1900年、25歳のチャーチルは、若き陸軍将校としてすでにインド、キューバ、スーダン、南アフリカを訪れていた。同年10月にはイギリス議会下院議員に当選。64年間に及ぶ議員生活が始まった。
 政治家としてのキャリアは波瀾万丈で、さまざまな物議を醸した。最初は保守党議員だったが、1904年には保守党を離れ、自由党に入党した。同党が選挙で圧勝する直前で、日和見主義ともいわれかねない絶妙なタイミングだ。「私は保守党議員として多くの馬鹿げた発言をした。離党したのは、馬鹿げた発言をやめたかったからだ」と言い訳している。
 自由党議員となったチャーチルは、輝かしいキャリアに恵まれた。1908年には商務相に就任。33歳の彼は内閣最年少で、前途洋々たる青年だった。同年には、クレメンティーン・ホージェーと結婚もしている。彼の激動の生涯において、クレメンティーンは安定の守り手となり、5人の子供を授かることになる。
 チャーチルの熱意と言葉遣いは、多くの敵を作った。英国の支配階級の名士であったミルナー卿を過去の人と見なし、「公的な出来事において、もはや重要な存在ではなくなった」と述べ、騒動を引き起こした。31歳の若造の発言としては、傲慢に映ったのである。

第4軽騎兵連隊に勤務していた頃の正装姿(1895年)

THE RAKE JAPAN EDITION issue 20
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