June 2017

THE GOOD, THE BAD AND IL BRUTTO

チャールズ・ブロンソン:
“卑劣漢”に秘められた失望

text stuart husband

『荒野の七人』(1960年)で、スティーヴ・マックイーン、ユル・ブリンナー、ジェームズ・コバーン、ホルスト・ブッフホルツ、ロバート・ヴォーン、ブラッド・デクスターと並ぶブロンソン。

地獄の極貧生活から一転 こうした放縦さにまつわる噂には尾ひれがついていたのかもしれないが、彼の妙なよそよそしさは幼少期からの辛い体験によって形成されたことは間違いない。

 ブロンソンは1921年に、ペンシルベニア州の炭鉱の町でチャールズ・ブチンスキーとして誕生した。15人兄弟の11番目だった。家族はリトアニア移民で、赤貧の暮らしを送っていた。時には妹のワンピースを着て学校へ行かなければならないこともあったという。そんな中、5歳で噛みたばこを覚え、4年後には紙巻きたばこを吸うようになった。

 10歳で父親を亡くしてから家庭はますます貧しくなり、ブロンソンも炭鉱で働くようになった。作業の報酬は、掘り出した石炭1トンにつき1ドル。そのため彼は、1943年に徴兵されたことは最高の幸運だったと言い切った。

「生まれて初めて十分な食事をし、きちんとした服を着て、英語力を磨くことができた。それまでは、リトアニア語、ロシア語、ポーランド語、シチリアの方言をちゃんぽんに話していたからね」

 終戦後、ブロンソンはニューヨーク州でレンガ職人や玉ねぎの収穫作業員として働いたり、夜間の美術学校へ通いながらフィラデルフィアのベーカリーで夜勤をこなしたりした。そして、アトランティックシティの遊歩道でデッキチェアを貸し出す仕事をしていたときに、何人かの役者と知り合う。それからすぐに、彼らの一座で役者になっていた。

「別に勧められたわけじゃないけど、簡単に金を稼げると思ったんだ」

 ブロンソンはほどなくカリフォルニアへ向かい、レッスンを積んで映画の役をもらった。初出演は1951年のゲイリー・クーパー主演の映画『駆潜艇PC-1168』。当時は冷戦を受けてハリウッドでも反共産主義的な審問が激しかったため、スラブ語とは似ても似つかぬ名字“ブロンソン”を名乗るようになった。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 14
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