Wednesday, May 24th, 2017

THE DUKE OF BEVERLY HILLS
ビバリーヒルズの公爵

アドルフ・マンジューは、無声映画から発声映画へうまく移行した数少ないハリウッドスターのひとりだった。
知識人であったことはもとより、彼の名を何よりも知らしめたのは、その粋な装いだった。
text stuard husband

時はすでに発声映画へ

 だが彼の足元では、より重大な変化が起きていた。20年代の末期に、ウォール街の大暴落が勃発し、おまけに発声映画の時代が到来した。マンジュー自身も「私がそれまで演じてきた、口上手で洗練された礼服姿の登場人物は、大恐慌の時代にはそぐわなかった」と書いている。ただ、多くの役者と比べると、彼の発声映画への転向はずいぶんスムーズだった。マンジューの享楽主義者的な顔を見て、中央ヨーロッパ風の優雅な口調を想像していたファンたちは、ペンシルベニア訛りのしゃがれ声を聞いてホッとしたのだ。この流れを後押ししたのが、マンジューにとって最大の当たり役となった、『犯罪都市』(1931年)のウォルター・バーンズ役だ。この役で、マンジューはアカデミー主演男優賞にノミネートを果たした。
 マンジューは50年代まで演じ続けた。出演作の一部は、はなはだ低級であ
たと本人は認めているが、スタンリー・キューブリックによる反戦映画の傑作、『突撃』(1957年)では、フランス軍の冷酷な将軍に扮して鮮やかな演技を披露した。しかしこの頃すでに、マンジューの名声は色あせていた。芸能界における共産主義者の一掃を目的とする機関、下院非米活動委員会を熱心に支援したことが原因だった。彼は友好的かつ血の気の多い証人として委員らの前に登場し、有名人の名前を挙げて公然と非難した。こうした政治活動については、苦々しく思う人もいただろうが、燕尾服やブートニエールを輝かせる彼の着こなしは、永遠にひとつの完成形であり続けている。
 マンジューが肝炎で亡くなったのは、1963年のことだった。どこから見ても完璧なスーツをまとった姿で彼は埋葬された。襟をきっちりと糊づけし、口髭を凛々しく整えたそのいでたちは、往年の都会的な優雅さを最後まで体現していた。

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『Easy to Love(原題)』のスチール写真(1934 年)

THE RAKE JAPAN EDITION issue 16
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