Monday, October 23rd, 2017

The Bold and the Beautiful
魔性の女、列伝

カネや権力に惹かれる女性が、美しさやセックスに惹かれる男性より浅はかだなんて、言えるだろうか?
自らの持てる武器すべてを使って運命を切り拓いていった女たち。
彼女たちは男勝りの度胸と強烈な個性を備えていた。
text james medd

 歴史の審判はときに厳しい。有名な悪女の生き様は、とりわけ酷評されることが多い。
「偉大な男性の影には、必ず偉大な女性がいる」というフレーズが存在するのは、何世紀にもわたって、偉大な女性たちが陰に追いやられてきたからだ。しかし中には、表舞台で活躍する大胆な女性たちもいる。
 彼女たちの行ったことは、多くの人々に否定されるだろう。けれども、こうした女性たちが、財産や地位を手に入れる方法が“玉の輿”しかないとすれば、カネや権力に惹かれる女性が、美しさやセックスに惹かれる男性より浅はかだなんて、言えるだろうか?
 例えば、当時屈指の大富豪2人と結婚して“金目当ての女”、“女版ポルフィリオ・ルビロサ”と揶揄されたニナ・ダイアーを、世間は酷評した。しかし、彼女は毅然として反論している。
「私はヤリ手だと言われたけれど、まったくの嘘よ。何もしなくても幸運がやってきたの。私の人生はずっとそんな感じだったのよ」
 ニナにとっての幸運は、偶然にも圧倒的な美しさとセクシーさを持っていたことだ。彼女はこれらを武器に、のどかな植民地での暮らしを捨て、裕福で華やかな世界を選んだ。
 1930年にスリランカ(当時のセイロン)で茶園の英国人オーナーとインド人妻の間に生まれたニナの境遇は、十分に満ち足りていたが、彼女はさらに上を目指し、20歳になると父の母国へ旅立った。最初はリバプールで演劇を学び、やがてロンドンに移ってショーモデルとして働いた。
 ネコを思わせる目、ふっくらした唇、シーンに応じてお茶目な恋人からエレガントな大人の女性に変貌できる演技力を持つ彼女は、モデルという仕事とそのライフスタイルになじんでいった。パリにわたってピエール・バルマンに気に入られ、リヴィエラのヨットやヴィラで催されるパーティーの常連になった。
 1953年までには、オランダ生まれの実業家、ハンス・ハインリヒ・ティッセン=ボルネミッサ男爵の心をつかむ。“ハイニ”という愛称で知られる彼は、製鉄業と軍需産業から得た巨万の富を相続していた。
 男爵は既婚で2人の子供がいたが、ニナへの愛情をとびきり豪華な贈り物で表現した。山のようなジュエリーに、世界に4着しかない野生のチンチラのコート、2台のスポーツカー。そして2頭の黒豹はどこに行くにも彼女の後をついて回り、ホテルのスイートにも宿泊した。バレンタインデーにはペリューというジャマイカの島をプレゼント。ニナはこの島に竹の小屋を建て、いつも全裸で泳いでいた。
 2人は1954年に結婚したが、わずか数カ月しかもたなかった。すでにニナが、一文なしだがとてもハンサムなフランス人俳優に心を移していることに、ハイニが気づいたのである。彼が逆上し、パリのナイトクラブで彼女を殴ったのは結婚から数週間後のことだったが、離婚が成立するまでには2年もかかり、明らかに彼の意思に反する結果に終わった。「非常に不愉快な手続きだった」とハイニは語っている。ニナは2頭の黒豹と280万ドル、パリ郊外にある70エーカーのシャトー、そして36万4,000ドル相当のジュエリーを手に入れたのだ。
 離婚から1年も経たないうちに、ニナは新たな大富豪を振り向かせた。かのアガ・カーンの息子、サドルディン・アガ・カーンである。今回の戦利品は、ペットの黒豹をイメージしてカルティエが特別に製作したジュエリー、そしてペリューの隣の島。この島は“ティアーモ”と改名され、彼女のボート置き場になった。
 サドルディンは豪華な贈り物をくれる以外はずぼらな男で、2人は1957年に結婚し、3年後に別居、そして1962年に離婚。ニナの手元にはさらに140万ドルが転がり込んだ。
 彼女はペリューにしばらく滞在した後、パリに移り、モデル業への復帰を試みたが、計画倒れに終わる。彼女はカルティエを好み、その後もジュエリー・コレクションを増やしていったが、子供を持たず、友人も少なく、何をしても満たされなかった。
 無情にも、ニナはわずか35歳にして睡眠薬を大量に飲んで自殺し、遺産は動
物福祉のために寄付された。

フレンチ・リヴィエラでバカンスを楽しむ20 歳のニナ・ダイアー(1950年)

THE RAKE JAPAN EDITION issue 18
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