Saturday, September 24th, 2016

SLAVE TO LOVE
孤高の天才、プリンス

ジミ・ヘンドリックスのようにギターをかき鳴らし、ジェームス・ブラウンのように踊って
万人を魅了する。プリンスには「天才」と呼ばれるアーティストならではの
独特な世界観がある。憧れの存在でありながら、いつも謎めいていた。
text stuart husband

 コンサートの冒頭に登場したのはパープルのフォード・サンダーバード。ウェンブリー・アリーナのフロアに乗り上げ、勇ましいドラムのリズムに合わせて円形のステージを周回する。扉が開くと、大きなボタンをあしらった水玉模様のホワイトスーツを着たプリンスが登場した。
 その後方で、ダンサーのキャット・グローバーとドラマーのシーラ・Eがバーレスク風のロデオガールの恰好をして足並みを揃えている。そこにプリンスも加わり、カーマスートラの体位を思わせるさまざまなポーズを2分間あまり繰り出す。ようやくマイクに近づくと、一呼吸置いてから、いつものようにセクシーに唇をなめ、「Erotic City」をゆっくりと歌い出した。
 プリンスのLOVESEXYツアー(1988年)が始まってほんの数分で、私の中では相反するふたつの思いが生じていた。ひとつは、今まで観てきたライブの中で一番エキサイティングなものだと確信したこと。もうひとつは、それにもかかわらず私はセックスのあとのように燃え尽きてしまったという思いだった。これからまだ、「When Doves Cry」や「Kiss」、「Let’s Go Crazy」、そして大ヒットした「Purple Rain」はもちろん、「1999」まで、あと31曲も残っているというのに。
 数時間後、すべてが終わりに近づくとプリンスはまたクルマに飛び乗り、興奮しすぎて咽び泣く観衆を残して姿を消してしまった。私の脳内はエンドルフィンで完全に満たされていたが、完璧なスペクタクルを目の当たりにし、「天才」という言葉のみがかろうじて思い浮かんだ。

あらゆる楽器を操る天才

 4月にプリンスが不慮の死を遂げて以来、「天才」という言葉を頻繁に耳にするのは、彼に対して他に適切な表現がないからだろう。手元の辞書には、「並外れた知的能力や創造力などの生まれ持った能力」と定義されているが、これはプリンスの類い稀な才能をほんの一部しか言い表していない。
 LOVESEXYツアーが行われたのは、『Purple Rain』『Around the World in a
Day』『Parade』『Sign o’ the Times』『Lovesexy』と5つの素晴らしいアルバムを次々にリリースしたあとだった。彼はジミ・ヘンドリックスのようにギターを奏で、リトル・リチャードのようにピアノを弾き、デヴィッド・ラフィンのようなハスキーボイスで歌うことができた。
 その影響力はトータルコーディネイトされた独特のスタイルにも及んでいた。しかも、情報が氾濫する現代にありながら、彼は死ぬまで謎めいた存在であり続けた。ヴィクトリア朝時代の哲学者、ジョージ・ヘンリー・ルイスが残した「天才は自らが辿るプロセスを説明できない」という名言を彷彿とさせる。
 結局のところ、私たちはプリンスのことをどれほど知っているのだろうか? 誰もが知っているのは、彼がジャズ・ピアニストだった父親の芸名プリンス・ロジャーにちなんで名付けられたことだ。父は息子に自分の夢を託したという。
 10歳のときに両親が離婚するなど、ミネアポリスで波乱万丈の幼少期を過ごしたが、彼は神童だった。7歳で初めて作曲し、19歳でワーナー・ブラザーズと契約。翌年にリリースしたデビューアルバムでは、なんと27種類もの楽器を自ら演奏したのだった。

あまりにも露骨だった歌詞

 1980年代にリリースしたアルバム『Dirty Mind』では、「Head」などの歌詞の中で、直接的で過激な表現を披露した。彼は宗教的な体験にオーガズムを見出し、「Cream」では「U got the horn, so whydon’t U blow it ?(ムラムラしたら、かましてやれ)」と当たり前のように問いかけた。「The Cross」や「I Would Die 4 U」といった官能的でゴスペルチックな曲を考えれば、オーガズムに宗教性を見いだしていたともいえる。もっとも、エホバの証人に改宗してからは、過去の楽曲がオンエアされると、あわててその場を逃げ出していたらしい。
 彼は「If I Was Your Girlfriend」や「When You Were Mine」のように複数恋愛をモチーフにした曲で、性別、国籍、人種を飛び越えた“別人格”を演じている。ゆえにそのスタイルは、「Purple Rain」で着たフリルシャツ、ミリタリーキャップにゴールドグリーンのアイシャドウ、そして水玉のホルタートップというコーディネイトなど、遊び心に富んでいた。ハイヒールは本人曰く、158センチの身長を高く見せるためではなく、女性に好まれるために履いていたという。
 このように枠にとらわれないスタイルを好んだので、清教徒的な自らの故郷より、退廃的な古きヨーロッパで特に高い評価を得た。自身が監督し、ヨーロッパを舞台にした映画『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』が酷評されても、この評価は揺るぎない。

Issue12_P49

カリフォルニアのザ・フォーラムでステージに立つプリンス(1985年)

THE RAKE JAPAN EDITION issue 12
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