February 2018

REEL BRITANNIA

ハリウッドを占拠した英国人俳優

text james medd

左から順に、ケーリー・グラント、キャロル・ロンバード、ロナルド・コールマン、ノエル・カワード(1940年代)

寛容すぎたアメリカ 評論家シェリダン・モーリーは、後にそのコミュニティを「ハリウッド・ラージ(英領ハリウッド)」と呼んでいる。彼は、著書『The Brits in Hollywood(原題)』に、19世紀末のアフリカやインドのように、20世紀初期のカリフォルニアには、イギリス人、少なくともイギリス諸島出身者が十分すぎるほど存在したとも記している。

 例外はあれど、母国と同じように執事を教育したり、親切な現地の者を見下したりと、彼らはインドを支配した時代の植民地主義者のように振る舞った。クリケット場で紅茶を嗜み、ツイードを纏い、口ひげを生やし、周知の傲慢さを携えて、自分たちを押し付けたのだ。最初から、彼らの芝居じみたもくろみだったのにもかかわらず、迎える側が寛容だったため、これらのイギリス人がひどく振る舞うことを許してしまったのだろう。イギリス人たちが来る前のハリウッドが抱く英国に対する知識は古いものではあったが、彼らがそのイメージをより一層強いものにしてしまったのだ。

 渡米したイギリス人俳優たちの先頭に立ったのは、アメリカで舞台や無声映画に出演経験のあった、ジョージ・アーリスであった。彼は、1929年の映画『Disraeli(原題)』で偉大なイギリスの政治家を演じたことでオスカーを獲得する。この受賞をきっかけに、祖国を舞台にした映画の波が始まったのだ。そしてその後も、増え続ける英国人俳優の数に後押しされ、ハリウッドは1930年から45年の間に150本もの“イギリス”映画を製作した。

 これがさらにイギリス人俳優を呼び込むことになった。そのなかのひとり、デヴィッド・ニーヴンは、自伝『The Moon’s a Baloon(原題)』の中で、自身がブレイクしたのは、「イギリス人俳優の大当たり年」のおかげだと語っている。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 09
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